「問題」現象への対処について

                  佐賀大学 豊島耕一
 大学改革をめぐっては,「自己改革の努力不足のために現在の事態を招いた」など
という表現に見られるように,いわば「罰」として少々のことは受け入れよ,という
言い方が見られるようだ.「任期制」導入も,法案の字づらのにある研究交流の「活
性化」ためという美名とは裏腹に,実際の議論では業績をあげないものの排除という
ことが強調されている.はたして大学は,他の業種にはほとんど見られない定期首切
りの制度を導入しなければならないほど「ひどい状態」にあるのだろうか.たとえば
,不祥事や硬直化でしばしばたたかれる霞ヶ関の官庁群や,この数日来マスコミを賑
わしている証券業界,バブルの責任を問われている銀行業界,あるいはどの社も同じ
記事で最も重要な問題をはぐらかす大新聞,これらに比べても,大学はとりわけ目立
って不具合な社会の一セクタとなってしまったのだろうか.(注1)

 そのようなことを主張する人はたくさんはいないだろう.(もちろん,私個人は大
学に働くものとしての自負心もあって大学のかかえる問題を最重要だと考えているが
.)大学も,ほかのいろんな部門と「同様に」,問題を抱えている,ということであ
って,それ以上でも以下でもない.言い換えると「官僚性善説」と同様に「学者性善
説」も誤りだという当然のことが遅まきながら分かったということにすぎない.それ
ではなぜ大学教員を一挙に不安定な被雇用者にするという懲罰的な(注2)「任期制
導入」の是非が論じられるほどに,「大学問題」が「問題」なのだろうか.それはよ
うするに一種の流行現象だということである.もちろん「流行」だから馬鹿にしてよ
いというのではなくて,むしろこれは有効に役立てられなければならない.社会どの
ような部門もこのような「外圧」があって初めて根本的な変革が可能になるのであり
,大学も例外ではないだろう.しかし「流行」につきもののヒステリックな態度には
警戒が必要で,あくまでも冷静に,社会全体のバランスの中にこの問題を位置づけな
ければならない.(注3)

 「流行」の渦中にある大学問題を考えるときに重要なこの「ヒステリックな態度か
ら自由になる」ことは,一般の世論にも求められるだけでなく,当事者である大学関
係者もしかりである.大学批判のキャンペーンがメディアや世論を制してしまえば,
どうしても人間としては極端に防衛的になったり,逆に卑屈になって不当な要求まで
受け入れてしまったりするものだが,これではまさしくキャンペーンを仕掛けた側の
心理戦にはまりこむことになる.そこは,少なくとも名目上は知的部門のチャンピオ
ンとされる学者の冷静さを見せるべきであろう.もしいわゆる「対案」が出せないと
しても,ダメなものはダメとはっきり言うことは最低限の義務である.さらに,この
問題に関してどのようなレトリックやスローガンが流通しているかということは極め
て重要であって,決して軽視してはいけない.「言語は単に客観的事実を記述する手
段ではなく,むしろ事実を構成する」(注4)からである.「活性化」,「10年間同
じノート」などという言葉に対応する事象を具体的に検討することによってこれらの
レトリックを分解する作業が必要である.「国鉄解体」の直前にくり返し流された,
職員が草むしりをする映像,そして「余剰人員」という言葉の及ぼした効果はまだ記
憶に新しい.「言葉狩り」ならぬ「言葉ウォッチング」は大事だ.

 このような観点から最近の「教養部解体」のプロセスを振り返ってみることは,ま
さに歴史に学ぶこととして重要な作業である.この政策自体が正しかったか間違って
いたかの議論はまだ早すぎるだろう.問題はその過程で取られた心理的手法である.
教養部の教育は「マスプロ」で「高校のくり返し」だというキャンペーンで,教養部
とその教員がほぼ悪者にされた.専門教育がかかえる問題には不釣り合いになことに
ほとんど焦点が当てられなかった.そのような中でいつのまにか,教養部存続論は時
代遅れと見なされるような雰囲気が出来上がったのである.そして,国民的な議論ど
ころか大学教員の中ですら議論らしい議論もなく,文部省の指導には逆らえないとい
う「情勢論」がまかり通って,金太郎アメ様式の画一的な解体となった.ちなみに全
大教はこの中で,単に「自主改革」のお題目を繰り返す以外の批判らしい批判をしな
かった.

 政策自体の是非は別として,このような上意下達式の「改革」プロセスを容認した
ことは大学に大きな負の遺産を残したと思われる.そしてその後遺症は今回の任期制
問題への大学教員らの対応の鈍さとなって,あるいは大学の正式の機関が今になって
も沈黙しているという現象として表れている.今回の運動も,立法化阻止という目標
と同時に,どれだけの経験と政策論を今後に残せるかということがもう一つの重要な
課題である.

 心理戦にはまらない強さを持つと同時に,もうひとつ重要なことは本当の問題点を
その解決策とともに明らかにすることであって,そのような真摯な努力が積み重なれ
ば一般の人々の共感も少しづつ得られるようになるはずだ.(1997.5.25)

(注1)赤塚氏[reform:527]はこの立場なのだろうか?
(注2)懲罰的というのは,現在すでにある職種を「任期付き」に変えるということ
であって,新しく任期付きの(多分高給の)職種を導入するということではないからだ.
(注3) 大学が特別扱いされるもう一つの理由は,大学教員という職,地位が,社
会一般からすればうらやまれるものだということがある.国立大学の教員の場合は,
これに加えて「公務員」でもあるため,「公務員=働かない」というステレオタイプ
と重なって,より一層きびしい目で見られてしまう.(私の妻は超零細な「企業」の
経営者のため,私がその仕事にくちばしを入れようとすると「公務員なんかには民間
のつらさは分からないのよ」という典型的な反応が返ってくる.)公務員云々は別と
して,大学教員という職が,自分の仕事の中味を自分で決められるという,被雇用者
としては特権的な性格の職業であることはまちがいない.大学の自治が形骸化してい
るとはいっても,研究や教育の内容にまで干渉されることはまずない.そのことにと
もなって,それに見合うモラルや謙虚さが求められるのは当然のことであろう.同時
に,研究にとって最重要なことはオリジナリティー,つまり一種の非常識である.し
たがって「変人」をとりわけ大切にしなければならない職場であることもまた真実で
ある.
(注4)グレン・D・フック,「軍事化から非軍事化へ」,p.29,お茶の水書房,
1986年.