教養教育における必要な「偏り」 佐賀大学教養教育運営機構広報 創刊号(2004年4月), p.5 理工学部 豊島耕一
教養教育で何を重視すべきか,というのが普通の言葉遣いであろうが,何かを重視すればどうしても他のものは,少なくともその要素の一部は相対的に軽視せざるを得ない.教養教育に振り向けるべき資源は多かれ少なかれ限られており,時間(コマ数)と空間(講義室)の制約はほぼ絶対的だからである.そういう趣旨ということで,やや奇異な表題をお赦し願いたい.
教養教育の目的とは
専門教育の目的性は,学習者の側からであれ,社会的な必要の側からであれ,一応自明な何かが共通のものとして存在するのに対し,教養教育の目的については多種多様な考えがあるだろう.その極端には目的ゼロ,すなわち不要論も存在する.このことは,その目的自体を常に自省し,確認することを実施者に求めると同時に,矛盾するようであるが,目的の単純な一元化ないし定式化をも避けるべきことを意味しているように思われる.教養教育そのものの中から,その実施目的が明らかになるということもあり得るのである.
教養教育というものが持つべきそのような本質的寛容性を十分に配慮しつつも,実施者や実施機関は,その目的と,それに沿った実施について,定期的な考察やレビューを行う必要があると思われる.昨年3月に発行された公式の評価報告書 [1] でも一応このことは行われているが,多くの項目に触れなければならないためであろうか,この問題を深く掘り下げてはいない.私はここで,民主主義社会を成立させるのに不可欠の教養という特定の「目的」に絞って,この問題を論じてみたい.
実はこの目的は,上の 評価報告書でもまっさきに次のように掲げられている.
目的1.民主的社会の市民としての幅広く深い教養および創造的な知性と総合的な判断力を培い,豊かな人間性を涵養するための教育(5ページ左欄下方)
この文章は様々のことを含んでいるので多様な読み方が可能である.評価報告書では,26ページからの具体的な評価の欄を見れば明らかだが,「民主的社会の市民としての」という部分を飛ばして,それ以降のいくつかのキーワードを切り出して評価の対象としている.しかし私は冒頭の12文字こそ重要だと思う.つまりこの文章では,「 民主的社会を成立させるための教養と行動力とを個人が持つ」という意味がその中心にあるものと考える.言い換えると,これは教育基本法第一条の「教育の目的」の中にある「国家及び社会の形成者(中略)を育成する」という文章と重なるものとして理解したいと思っている.そしてこのことの重要性は今日非常に高まっている.いや,むしろ高校までの教育でこの目的が非常になおざりにされており,「民主的社会の市民」の育成は破綻と言えるほどの危険な状況にあると思われるのである.
無視されている教育基本法8条
なぜか.分かりやすい例は若者の投票率である.昨年行われた衆院選の直後,私は物理科学科の3,4年生の有権者である学生十数名に投票したかどうか訊ねてみた.結果は40%であった.もしこの数字が若者一般を代表するものであれば,最低限の政治参加を保障した普通選挙制度の破綻を予告する.つまりこの制度を重要な基盤としている民主主義そのものの不成立の予兆である.教育は,若者に,投票という政治参加への動機付けを与えることに失敗しているのである.「知性」や「判断力」以前の問題である.
もちろん投票率だけの問題だけではない.候補者を選ぶときの判断のクオリティーの問題もある.ここにこそ「知性」や「判断力」を高めるという大学の教養教育の役割があるのだが,残念ながら多くの若者のケースにおいてそれを働かせるところまで到達していないという現実があるのだ.
原因の重要な一部として,高校までの教育への,諸外国には見られない強い官僚統制が挙げられる.特に文部科学省は,教育基本法第八条に謳われた「政治的教養」を尊重するどころかむしろ抑圧しており,対極的な国家主義のシンボルである日の丸・君が代の「実施率」ばかりを気にかけている.平和教育などに熱心な教師は管理職からの抑圧を感じている.教師たちが生きた現実の政治問題について,教室で自由に生き生きと生徒たちに語りかけるという雰囲気がなければ,生徒たちの政治への関心も育たないだろう.
大学教育で求められる「偏り」
このような背景で大学に入ってくる若者に対しては,まさに「インターフェイス教育」ないし「リメディアル教育」こそが重要であろう.つまりカリキュラムの配置において「政治的教養」にかかわる分野にバイアスをかける,重点を置く必要があると思われる.
ではその「政治的教養」にとって何が重要だろうか.もちろん政治学,経済学,法学などの伝統的な学問が重要であることはもちろんである.しかしここでは特に,「メディア・リテラシー」に関する授業の重要性を強調したいと思う.
メディア・リテラシー教育
1998年のアメリカ映画,トゥルーマン・ショーは,作られた「現実」の中で飼育される人間を描いて,メディアに支配される現代人を鋭く突いた.実際私たちの思考の多くの部分がマスメディアによって支配されており,そのメディアを支配する者は全てを支配する.この状況は今日の民主主義にとっておそらく最大の脅威であろう.
この現実の中でメディアに支配されずみずから情報を選別,獲得していく素養を多数の人が持つことは,民主主義の成否にとってほとんど決定的な重要性を持つ.しかも多くの人にこのような態度と能力を身につけさせることは並大抵のことではないだろう.したがって学校における系統的でしかも大規模な努力が求められると思う.大学ももちろんその重要な一翼を担うべきであり,全学生に共通的に学んでもらう授業として十分成立しうるものであろう.
その中では,単にメディア情報の受け手としてのリテラシーだけでなく,送り手としてのリテラシーや,メディアへの送り手としてのアクセス権の問題が取り上げられなければならないだろう.もちろん,マスメディアのありかたについての議論も重要である.
03年度に第三分野で「ジャーナリズムの現在」と題した授業が実施されているが,このようなカテゴリーの講義がもっと多様に展開されることを要望したい.
平和教育
冷戦の終わりで世界は平和に向かうだろうとの期待は裏切られ,各地の紛争や戦乱はむしろ激しくさえなっている.そして21世紀は冒頭から唯一超大国による二つの国への一方的な攻撃という事態を経験することになった.そして「専守防衛」だったはずのわが国も,自衛隊の地上部隊を重武装で超大国による占領地に派遣するというところまで来てしまった.さらに「ミサイル防衛」への参加で,わが国の軍事産業も勢いづいている.このような状況において,平和教育の重要性は強調しても強調しすぎることはないだろう.
ユネスコ憲章は前文の冒頭で「人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とし,また,政府間の取り決めだけによる平和は永続しないので,「平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない」と述べている.いずれも教育に課せられた大きなテーマであり,今この「原点」に戻って考えることが重要ではないだろうか.高等教育の平和への貢献については.98年に採択されたユネスコの宣言「21世紀の高等教育 展望と行動」でも強調されている.
いずれにしても,教養教育の目的に対して教員と実施組織が常に自覚的であるためには,教養教育全体の内容のバランスと充実度について気を配り続ける主体の形成が必要である.そしてそのような委員会の会議をできるだけ公開することで,多くの人の知恵が結集されると思う.
[1] 「佐賀大学の全学教育(教養教育)に対する大学評価・学位授与機構の評価」(2003年3月,佐賀大学全学教育センター)の中の,「全学テーマ別評価自己評価書」参照.