任期制についての国大協の意見とそれへの森田氏のコメントについて

                      佐賀大学 豊島耕一

 [reform:128]において,世話人の森田氏が「『大学審議会組織運営部会における審議の概要―大学教員の任期制について―』についての国大協の意見(案)」(以下,国大協の意見と呼ぶ)を紹介し,その前書きの形でそれについての彼のコメントが添えられています.これらについて私の意見を述べたいと思います.

 まず,森田氏の貴重な情報提供に感謝したい.同時に,このような重要な文書が,インターネットを利用できるわれわれ「情報貴族」だけしか早期には入手できないということは大きな問題である.佐賀大学に関する限り,学長がこれを教員に伝えるということはなされていない.

 森田氏は朝日新聞の報道が正確でないと述べているが,「国大協の意見」を読めば,間違いなく任期制賛成の意見表明であることが読みとれる.それは,「総括」の冒頭に「大学審議会組織運営部会の審議が任期制導入を可能にする方向であることには敬意を表する」とあることだけでも明らかである.また,随所に「賛成する」の文字が見られるのに,「反対する」の語は一つもなく,せいぜい「疑問である」,「望ましくない」という言葉が部分的な批判に使われているだけということからも,全体として賛成の見解であることはだれにでも明らかであろう.(元来,国大協は何らかの問題で意見を述べる際に,もし反対であっても「反対」の文字を使うことを避けているようだ.授業料値上げ問題でも,使われたのはせいぜい「配慮」の文字ぐらいではなかったか.)

 森田氏が言うように「積極的なものを含む」ことは間違いないが,それらはむしろ,これに追従していることを見えにくくするごまかしとして付け加えられているに過ぎない.むしろこの世の中で,全く何一つ「積極的なものを含」まないものを探すことの方が困難というだけの話である.もちろんこのことは,それらを我々が「積極的」に利用することを妨げるものではない.

 国大協の,大学審の文書の項目建てに沿って意見を述べるという体裁そのものも,彼らの見識のなさを天下に晒すものになっている.項目建てというものはそれ自身がすでに特定の価値観を前提にしているのであり,これに無批判に従属するという態度は,まるで小学生が,先生から与えられた宿題の答えをこしらえているのと大差ないのである.

 この「国大協の意見」で見過ごせないのは,「全教員について定期的な業績評価を行うことは・・・実施を検討するべき」として,「個人評価」導入を主張していることである.「個人評価」導入の是非については,国大協ですでに十分議論されたのだろうか.少なくとも教授会レベルではそのような報告を受けた記憶がない.

 このような国大協の意見は厳しい批判の対象にさらされるべきであって,これをいささかも持ち上げるようなことは,責任を負うべき地位の人々に対する一種の「甘やかし」というべきである.国大協やそれが打ち出す見解については,これまでしばしば「一定の積極的側面あり」ということで,消極面が軽視され,むしろ原則的批判に対する政府のための防波堤の役割を果たしてきたのではないか.そろそろこれの評価を改めるべき時期に来ているようだ.

 国大協で思い出されるのは,「共通一次」導入の問題である.これにかんする国大協のきちんとした総括をまだ見た記憶がない.国大協はまずこの失敗を深刻に総括し,教訓を引き出す作業をするべきである.なぜなら国大協には,これによって受験戦争を「精密戦争」にまで拡大させたという「戦争責任」があるのであり,これをうやむやにはできないからである.(1995.12.11)