責 任 あ る 対 応 と は 何 か
   −−国立大学の学部再編の手続きについて
       (Ver.1.2)

                佐賀大学教養部 豊島耕一	
                toyo@cc.saga-u.ac.jp

        知識人のほうも,あまりにも長いあいだ,あまりにも
        楽をしすぎてきた.日本の市民は,そろそろ彼らにも
        危険を冒してもらうよう促すべきだ.(K.v.ウオ
        ルフレン,注1)

文部省の違法行為
 先に私は,国立大学の学部新設の設置審による審査という手続きには
法的根拠がないばかりか,文部省がこれを大学に強制してきたのは重大
な違法行為であることを指摘した(注0).その後専門家にもたずねた
結果,法的根拠がないことは明白となった.これまで違法な「行政指導」
を続けてきた文部省の責任は重大であり,それこそ同省じしんの「設置・
廃止」にかかわるほどの事態であると思う.
 「国立大学の評議会に関する暫定措置を定める規則」という省令の第
6条が認めている大学の自治権は考えてみれば当然のことであって,教
育・研究の専門家でもない小さな役所に個別の大学についての決定権が
あると考える方が−−ただ東京にある中央官庁と言うだけで−−よほど
異常だったのである.42年も前の省令だから古くて時代に合わないな
どと言ってはいけない.地方分権化という時代の潮流にもマッチした実
に今日的なイデオロギーですらある.

大学のとるべき態度
 そこで問題になるのは,今後大学側が,このことを明確に意識した上
でどのような態度をとるべきかということである.「許認可権」がない
のが明白だから文部省はもはや大学に設置審への書類手続きを強制でき
ないだろう.しかし従来のやり方を変えるつもりもおそらくないだろう
から,大学の「自発的な」行動という体裁を暗に要求してくるに違いな
い.そこでまさに大学側の見識が正面から問われることになるのである.
 自治権を持つことを知りつつこれを放棄するのは,「学問の自由」や
「大学自治」をみずからの意志で投げ捨てることを意味し,ことは重大
である.ほかの大学も従来どうりにやるだろうから,自分の大学だけ突
出できないというのは言い訳にはならないだろう.このような「『シカ
タガナイ』の政治学」(注2)が日本の官僚独裁体制の基盤をなしてい
ることは今や明白になっているからである.
 組織改編の立案段階で文部省の意見を聞くのは当然かもしれない.し
かしこれを無批判に取り入れたり,決定に際して「文部省の判断を仰ぐ」
となると話は全く別である.この態度は決して「慎重さ」や「社会の要
請に敏感である」ことの証明ではなくその反対である.自ら判断する責
任を回避し,うまく行かなかったときに「文部省の責任」にしてしまえ
るので,大学内部での十分な検討をせずに計画自体がいい加減なものに
なりかねないからである.学部構想の設置審への「審査依頼」はこの無
責任さの総仕上げである.

教員の資格審査も独自に
 個別の大学にかかる責任の重大さは,教員の「資格審査」についても
同様である.設置審にかけなくていいから楽だなどということにはもち
ろんならない.これも自前でやらなければならない.これは設置審に
「外注」するよりもわれわれにとってむしろきびしいことになるだろう.
個別の大学ごとにやってもいいが,「大学基準協会」またはあたらしい
大学連合組織でこのような審査機構を合同で作るということも考えられ
る.いずれにせよ,教育自治・大学自治の立場を取るかぎり,行政機構
の付属物としての設置審という形態は否定されなければならない.これ
は私立大学に関しても同様である.大学またはその集合体は,国民から,
そして歴史から付託された「自由」からも「責任」からも逃げてはなら
ないのである.

私大の審査にも違法性
 設置審のことでつけ加えれば(私大は審査が義務づけられている),
これが最近明確に違法と思われる審査形態をとり始めたことを指摘しな
ければならない.92年から「大学設置分科会」の中に「設置構想審査
委員会」が新設されたのである.これがどのような機能を果たすべきか
について,その「審査内規」は次のように述べている.
  「教育研究上の理念・目的が(中略)今後わが国高等教育が全体と
  して目指すべき基本方向(教育機能の強化,教育研究の高度化,生
  涯学習への対応)に照らし適切かどうか」(注3)
これが学問の自由,教育の自由の侵害であるとすぐに直感出来ない人は,
はっきり言おう,憲法的,教育基本法的感性にヤスリがかけられ磨滅さ
せられてしまっていると.学問の自由とは個人にかかわることだけでは
ない.どのような組織でこれを実行していくのかということもその重要
な内容である.これに国家は介入できない.ましてや官僚の不法なヤミ
権力ならなおのことである.勘違いしないでほしいのは,これは補助金
の審査の基準ではないということだ.設置そのものの認可が「教育研究
上の理念・目的」で判断されるというのである.「大学設置基準」以外
の判断根拠を持ち出すのはあきらかに違法である.まるで勝手にストラ
イクゾーンを狭くしてボールの判定をするようなものだ.文部省による
教科書検定の問題にたとえれば,教科書の「理念・目的」で合否を判断
すると言っているのと同じことである.

健全な緊張関係を
 国立大学の再編手続きの問題に戻れば,設置審にかけるのを断れば文
部省のいやがらせにあって再編計画そのものがダメになるというリスク
を負うことになる.これは今まで苦労してプランを作ってきた人にとっ
ては受け入れがたいことかも知れない.しかしそのリスクを負うに値す
る「大義」があるかも知れないことに思いをめぐらしてほしいのである.
また同時に,このことで,つまり設置審にかけるかかけないかによって
文部省が予算案作成で差別的な対応をしないように,学部長会議などで
意思統一をはかってこれにクギをさすべきだ.学部長らにもそれくらい
の勇気はあると思うのだが.この種の会議はこれまでもっぱら「大本営
発表」の伝達機関となってきたが,これにはもう誰もがうんざりしてい
る.(1995年3月13日.3月15日付け佐賀大学教職員組合ニュ
ースにて公表)

(注0) 豊島耕一「国立大学の学部新設の際の設置審による審査とい
   う手続きは適法か?」,fj.education, 記事ID:toyo-
   0103951129290001@pegasus.la.saga-u.ac.jp,または佐
   賀大学教職員組合ニュース,95年3月7日付け.
(注1) ウオルフレン著「人間を幸福にしない日本というシステム」,
   毎日新聞社,94年刊,281頁.
(注2) 同,24頁.
(注3) 草原克豪,「新設置基準と設置審査のあり方」,IDE(民主
   教育(?!)協会誌)92年7月号18頁.