60年前の基礎科学と国家の関係論

佐賀大学 豊島耕一

 大学における研究のあり方をめぐって,「国際競争」とか「産学共同」などがさかんに喧伝され,科学研究ももっと「国策」に沿って行われるべきだ,というような言説も現れそうな雲行きです.ここで60年前の1941年の「文芸春秋」6月号 (p.46-53) に掲載された,物理学者菊池正士氏(1902〜1974)の文章を眺めてみると,過去と今日の言説に非常に似通ったパターンが見られることが分かります.この年の暮れに日本が真珠湾を攻撃して無謀な戦争へと突入していきますが,その直前のことです.

 その文章は「純正科学と時局」と題するもので,戦争の状況下での科学研究のあり方について論じた,8ページにわたる長いものです.実は何のコメントもなしで原文を読んでいただくのが一番いいと思いますが,残念ながら文芸春秋はウェブへの単純な転載を一切認めていないため,このように「地の文」で挟まざるを得ません.ですから引用部分だけを拾い読みされても構いません.(「純正科学」は現代語では「純粋科学」ないし「基礎科学」に相当すると思われます.)

 著者は昭和26年に文化勲章を受賞しており,戦後も原子力政策で重要な役割を果たしたようです.

 冒頭,本人が先に出した文章が決して基礎科学を軽視したものではないとの弁解から始まり,しかしその心構えは,と次のように続きます.

48ページ
上段
(三)冒頭
「然らば何も事新らしく云ふまでもない。純正科学者は今迄通りのことを一生懸命やればよい様なものであるが、然したとへすることは同じであっても純正科学者の気持の上から云へば、私は正に百八十度の転回が必要であると思ふのである。是は然し私個人が従来非常に誤った考へを持ってゐたから、今百八十度の転回が必要なのであって、私以外の科学者はすでにずっと前から、此の意味で国家目的に沿ふて働いて来られたものならば、甚だ結構である。然し私はあながちさう許りとは云へぬと思ふ。」

48ページ
下段
「或は次の様な論をなす科学者も皆無とは云へないかも知れない。即ち純正科学研究は国防と云ふ様な問題と全く離れて、科学者がひたむきに其の身を真理探究の欲求に委ねることによってのみ可能なのであって、其以外の雑念が入ったら研究は出来ない。従って純正科学を進歩させる為には、科学者を全く自由の立場に置かなければ不可能であると、是は勿論科学者の個性にもよることでもあろう。私自身純正科学者であるが、私にはそんな気持ちは毛頭ないし、又私の友人の純正科学者の仲間にもそんな人はゐない。此の様な議論があるとすれば或は純正科学者以外の人が、我々の気持ちを勝手に推量してそんなことを云ふのかも知れない。又たとへ百人中に一人位そんな人が居たとしても、国家の為に働くと云ふことが雑念となって研究の妨害となる様な人にはして貰はなくてもよいであろう。」

そして国家目的への研究者の密着を次のように説きます.

49ページ
下段
「・・・・今我々は二千六百年の歴史を経て、始めて欧米諸国と戦争距離に入りつつあるのである。日本が二千六百年の歴史を汚すか汚さぬかが、今後数十年の歴史によって決せられるのである。現在迫りつつある国難は我国にとっては全く最初の経験である。明治維新や日清日露の役と比較にならぬ程重大なものであり、危険性の伴ふものであることを覚悟せねばならぬ。大変好戦的の言辞を弄する様であるが、この点がはっきり看取されないならば現在流されつつある数万の同胞の血は無駄になってしまふ。我々現在社会に出て働いている年輩の者にとっては、生涯平和の日は来ないと云っても云ひすぎではないと思ふ。純正科学の真の目標が奈邊にあるかと云ふ様な観念的の議論は意味がない。たとへ国防を離れて真理探究と云ふことが純正科学の真の目標であったとしても、現在に生きる我々として国家目的を離れてこの欲求に身を委ねることは罪悪であると思ふ。もちろん私としても一抹の悲哀なしにこんなことが云へる訳ではない。併し現在払われてゐる大きな犠牲と比較すれば科学者の感傷など問題ではない。・・・・・」

50ページ
下段トップ
「国家に余裕のある限り各人が国防に関係のない文化活動に従事することは結構であらうが、我々物理学や化学に従事する人は何れも特殊技能者であって、広義の国防に直ちに参与し得る能力があるのだから、少なくとも是等の人達は直ちに普通の意味の文化活動は捨て、国防に参与すべきであると思ふのである。」

さらに戦時下といえども基礎研究は重視すべきであるが,しかし貴重な資源の配分を受ける以上「統制」と「監視」が必要であると述べています.

52ページ
下段初めの方
「以上のやうな意味で第一段の動員に直接関係しない純正科学研究の問題であるが、是を放任するか或は特に保護奨励策を講ずるかと云ふ問題になる。現状のまま放任することは研究を全く不可能にすることになる。現在我々は資材の不足、・・・・」

52ページ
下段最後

「それで私の考へでは遠大なる国家の大計を立てる為には、当然純正科学の重要研究の積極的推進が、厳正なる統制下に於いて行はるべきであると考へる。殊に日本の現状に於いては純正科学は外国に比して尚ほ非常に遅れてゐるのであるから、是をおろそかにする事は我国の将来の技術の為に見て甚だ不安に思ふ。然し国家がなけなしの資材を投出するからには、当然厳正なる統制下に於いてなさるべきであることは繰返し云ふまでもない。

 統制方法は次の二点にあると思ふ。第一に資材及び研究者の適正なる配分と、第二に研究の監視である。物資の配分によって自然的に重要研究を保護し、つまらぬ研究を淘汰する。又分配を適正ならしむる為には厳正なる監視が絶対に必要であり、実績をあげ得ぬ研究機関に対してはその原因を調査し、責任を明らかにする必要がある。是等のことを行ふ為に現役研究者自身の組織する有力なる審議会を作り、是と強力なる政治組織の結合が必要であらうと思ふ。

 第二の研究の監視と云ふことに就いてはいろいろ反対があるであらう。日本人はとかく人の研究に対して論議することを嫌ふが、是は研究と云ふことを非常に個人的に考えるからであらう。キザな云ひ方かも知れないが、今後研究室は戦場と考へて然るべきだらうと思ふ。一切個人的の感情はすてるべきであらう。勿論監視を悪用すれば大変な障害が起こり得るし、又一体厳正なる監視を誰がなし得るかと云ふ様な考え方もあらうが、現在日本の学会に於いて、我々の上に立って是をなし得る人が居ないとしたら実に情けない話である。」

以下のような対応関係で,現在行われているような議論とのホモロジーが成り立っているように思われますがいかがでしょうか?

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 1941年           2001年
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 国家の大計        →  国のグランドデザイン

 国防           →  国際競争

 研究の監視        →  研究の評価

 適正なる配分       →  重点配分

 厳正なる統制       →  中期目標,中期計画

 強力なる政治組織の結合  →  運営諮問会議,学外者を含む評議会
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このほかの様々な分野やジャーナリズムにも当時の言説と今日のそれとに多くの相似性が見られるのではないかと想像します.皆さんも「発掘調査」されて見てはいかがでしょうか?

(2001.12.19,2001.12.21. Ver.0.92)