知識人の在り方についての根本問題が書かれているように思います.著者と出版社の許可を得て転載します.[転載の動機はこちら]



加藤周一著,「私にとっての二〇世紀」,p72,中程から.

(岩波書店,2000年刊)

 私のいた大学でもティーチ・インをやった。ティーチ・インというのは、学生主体だけれども、教師も出てきた。私も教師だからそこのティーチ・インに出た。そうしたら、実に面白いことが起こった。あとで調べてみると、米国でも同じようなことが起こっているのですが、そのティーチ・インに参加して、いちばん最初にヴェトナム戦争の批判をするのは、物理学者とか数学者とか自然科学の理論的なことをやっている人たちと、英文学科の教授とか、文学部の教授でした。それから、若干の社会学者。高度に抽象的な研究にふけっている数学者とか、英文学者は、その専門は戦争に全然関係がない。もっと専門が戦争に近い国際関係論とか歴史学、ことに米国史の専門家、政治学者たちはいちばん最後でした。とにかく先頭に立たなかった。

 なぜだろうか。私がカナダの大学のティーチ・インに出席したとき、学生が反対演説をする。私も何か言ったかもしれません。とにかく反対演説がたくさんあったところへ、政治学の専門の教授が出てきて演壇に立って、「今、みんなの話を聞いていると、学生は反対し、それからあと同僚教授の中にも反対している人がいるけれど、数学者だったり英文学者だったりして、みんな専門が違う。はっきりいえば、詳しいことは全然知らない。ヴェトナム戦争というのは、米国の政治問題だ。米日の政治については皆さん何もご存じない。ご存じない方だけが集まって反対しているような気がします」といったのです。「政治学専門の学生もいるけれども、まだ大して知識がない。皆さんに忠告するが、米国の政治というのはかなり複雑なものだから、何も知らないで、一冊の本も読まないで反対されても困る。なぜヴェトナム戦争が起こったかということをもう少し詳しく、せめて二、三冊の専門書ぐらいは読んだあとで反対なさったほうがいい。私は、今この段階では戦争に反対できない」という演説をしたのです。

 その演説に対して私は反論をした。たぶんこういうことをいったと思うのです。ヴェトナム戦争は、あなたのおっしゃるように、どうしてああいう決定になって、こういうふうに発展してきたかということを理解するのは難しい複雑な過程でしょう。それはいわれるとおりです。その意味では私に知識がないということも確かにおっしゃるとおりだと思う。しかし、全然罪もなければ悪いこともしていない子どもまでたくさん殺されている。殺される事実をわれわれは知っている。たとえ、戦争を指導しているところで、どういう経過を通じてそれが決定されたかということを知らなくても、それは反対する充分な条件、理由になる。それは必要なだけではなくて、充分な条件である。子どもが皆殺しにされていることを知っていれば、それだけで反対理由になる。どういう経過でそういうことになったかということを調べて知ることは、それはあなたの道楽かもしれないけれど、私の道楽ではない。こういうふうにいったのです。

 その時は大勢の集会だからわりに筒単なことで反論をしたのだけれども、あとでよく考えてみたらこの議論はなかなかおもしろかった。モノを理解するということは、まず混沌としているモノを秩序に還元することです。歴史的事件を秩序立てるためには、理想的には、原因・結果の連鎖の中にそれを組み込むことが必要です。だから、ヴェトナム戦争の理解が進めば進むほど、その現象は偶然に起こったことではなくて、ジョンソン大統領が悪いとかではなくて、もっと原因・結果の連鎖の中にそれを組み込むことが必要になる。

 したがって、専門家の知識が進めば進むほど歴史的事件は必然的に見えてくる。もし完全に必然的ならば、過去の条件の中から現在の状況が出てくる。したがって、過去の条件を変えることはできないわけだから、現在の状況に反対するということは無理なわけです。反対しようと反対しまいと、とにかくそれが必然的に起こっているのだから、政治学というものは、それを理解すればするほど現状肯定になる、現状の必然性の説明だから。現状の偶然性の説明では学問にならない。

 政治学、あるいは歴史学の場合には、学問が進めば進むほど歴史的な現象が現在起こっていることの必然性を理解することになるので、進めば進むほど批判力が低下する。つまり、批判しても無理だからということになる。そう考えると、なぜヴェトナム反戦運動が数学者と英文学者から出て政治学者から出なかったかが説明できる。その論理はもちろん、ヴェトナム戦争に限らず米国に限らず、どこの国でもいつの場合でも貫徹する普遍的な問題だと思います。

 同時に、戦争というのは果たして「必然性」として捉えることができるか、という問題がある。必然的だということになると戦争反対がいえなくなる、できなくなる。にもかかわらず、私は戦争反対です。もちろん反対するためには、自由があるという考え方をとらなければならない。完全に必然的なものではなくて、いま決定すればそれを変えることができる、「やめる」という決定は可能なのだという立場に立たなけれぱならない。

 しかし、戦争に反対する動機は、客観的な理解過程ではなくて、一種の倫理的正義感です。つまり「子どもを殺すのは悪い」ということがある。それで、ためらうことはない。そういう問題の時にこそ、その目的を達成するために科学的知識を、客観的知識を利用すべきであって、科学的知識のために倫理的判断を犠牲にすべきではない。

 だから私は、戦争反対のほうが先にある。「初めに戦争反対ありき」です。反対を貫徹できるかということで学問の助けを借りる必要はある。どこに状況を変える要素があるかということを知るために。しかし、客観的な知識を磨いていることから戦争反対が出てくるのではない。むしろ、それをやめさせるように、戦争反対をできないようにする傾向が科学的知識の中には含まれている。ですから、「科学から倫理」ではなくて、「倫理から科学」でなければいけないと思う。