これは先の国大協総会において鹿児島大学学長が配布された文書です。ネットへの転載を認めていただいた田中弘允学長に感謝の意を表します。
最後の方の「したがって、もし」で始まる段落の中に2回出てくる「すべての」には傍点がふられています。
なお原文では日付の年号が「平成13年」とありましたが、転載者が「平成12年」と修正しています。
鹿児島大学学長 田中 弘允
私は、国立大学の独立行政法人化問題について、依然として深い懸念と危惧を禁じえません。この問題は、単に国立大学のみならず、日本の将来全体に甚大な影響を及ぼす可能性がありますので、私は現時点で最も危惧される二つの点について、問題を以下のような論旨にまとめてみました。事はあまりにも大きく、しかもいまだ問題の全容は、その姿を現しておりません。したがって私どもは、予め結論を先取りすることなく、まず虚心に問題の本質に目を向けるべきであると考えます。
すべての国立大学を法人化した場合、日本の高等教育界は、「二種類の大学法人、すなわち国立大学法人と私立大学法人とをどのようにして区別するか」という問題に直面するはずである。言い換えれば、「ともに法人格を持ちながら、いかなる根拠により、国立と私立との間で、国からの交付金(と身分)に差が出るのか」という問題である。
これに対する文部省見解は、国立大学法人は、独立行政法人通則法に基づき、「中期目標の指示」「中期計画の認可」「教育研究の評価」等で「国の関与」(規制)がある点で私立大学法人とは異なる、というものである。
しかし、この「指示」「認可」から運営費交付金の「交付」を経て教育研究の「評価」に至るまでの過程が、行革推進本部ならびに私立大学を納得させるものとなるためには、文部大臣の指示・認可等は、国から国立大学と私立大学とに渡される交付金の《差》(注1)に見合っただけの《厳しさ》を持たなければならないであろう。つまり、指示・認可等の規制を強化せざるを得ないのである。これは、法人格を与え、規制を緩和し、自主性・自律性を増す、という今回の法人化の趣旨と真向から対立する。それは、名において法人格を与え、実においてそれを奪うに等しく、本質的に自己矛盾である。
この問題は、欧米では表面化しない。欧米において私立大学は、国立・州立と比べて無視し得るほど少なく、かつ巨額のファンドを有するものが多いからである。これに対して日本では、私立大学は、学生数・大学数とも国立と比べて圧倒的に多く(注2)、かつその財政基盤も欧米ほど強くはない。これらの事情が重なって、日本の国立大学に欧米並の法人格を与えるのがきわめて困難なのである。
そうすると、もう一つの可能性として、国立大学法人と私立大学法人の法人格(自由度)の差異を少なくし、国からの交付金も均一化する、という方向が浮上してくる。これは、まぎれもなく国立大学の民営化、私立大学にとっては規制強化の方向である。もしこの方向に進むならば、日本の高等教育界は、全国の国公私立大学はもとより各種専門学校をも巻き込んだ、大競争・大混乱の時代に突入するであろう。
もう一つの論点は、独立行政法人制度が、行政改革の指導理念である「小さな政府」「行政機関の減量・効率化」に法律的根拠を有することから生じる問題である。
周知のように、行政改革の目的は「小さな政府」にある。これには二つの手法があって、一つは「官から民間ヘ」、すなわち「市場競争原理」の導入であり、他は「国から地方へ」、すなわち「地方分権」である。このうち市場競争原理は、カネ・モノ・ヒトの流れを大都市に集中させる働きをする。これに対して地方分権は、本来、この流れにブレーキをかけ、全国的に均衡ある発展を促し、過度の集中化にともなう社会問題の噴出を回避する働きをすべきものである。たとえば、日本全体が高度経済成長期以降、人口の過度な一極集中・大都市集中、また逆に地方の過疎化という問題に直面し、その流れを緩和するため、各方面で「国土の均衡ある発展」というスローガンが叫ばれたことは、この事態の端的な現れである。
このような文脈で国立大学の意義を考えるならば、比較的均衡ある形で全国的に配置されている地方国立大学は、市場競争原理に伴う大都市集中化の流れに抗して地方分権と地方活性化を推進し、「国土の均衡ある発展」を実現する大きな可能性を秘めている、と言わなければならないであろう。この点については、先の「文部大臣説明」の中でも、「地方分権が進む中で、国土の均衡ある発展を図るためには、各地域において大学が果たすべき役割が、ますます重要になるものと考えており、こうした点を踏まえた対応が必要であります」と、「独立行政法人制度と国立大学」の節で述べられている通りである。
これらのことは何を意味するであろうか。それは、大都市圏の大規模大学への《拠点化》《集中化》の方向とは逆に、地方国立大学については、あくまでもく《分散化》を維持し、一方向的に《集中化》のみを図るべきではない、ということである。この点はきわめて重要であり、今後ますますその意味の重要性を増していくであろう。上述のことは、国立大学の役割・機能の中には《集中化》と《分散化》という、二つの異なったベクトルが働いている、ということを意味するからである。
したがって、もしすべての国立大学に集中化の論理のみを適用し、地方国立大学の役割・機能を弱体化させるならば、それは地方分権に矛盾し、国土の均衡ある発展は困難となり、地方は自立的な発展の最大の拠点を失い、グローバルな市場競争原理主義の猛威に押し流されることになるであろう。そして、すべての国立大学への独立行政法人制度の適用こそ、まさにこの集中化の論理の暴走と言わなけれぱならないのである。今後の日本の高等教育政策は、この《集中化》と《分散化》という二つの契機を正しく制度設計の中に組み入れていくべきであると考える。
およそ以上のように、独法化問題は日本の将来に深く関わる大問題であり、しかもいまだ誰もその帰趨を見通せない段階にあります。したがって国大協は、国大協としてのあくまでも“現時点での考え方”を自覚的かつ慎重に提示すべきであり、決して最終的な立場を予断すべきではないと思います。具体的には次の3点を、国大協として現時点で明確に表明しておくべきであると考えます。
(1)昨年9月の「検討の方向」以来、制度の具体的な内容については何ら新しい材料は堤出されていない。したがって、現時点では、これまでの国大協の立場(通則法の下での独法化に反対)、を変えるべきではない。
(2)調査検討ならば、参加するのにやぶさかではない。
(3)調査検討の緒果、独法化が有効なところとそうでないところ、またきわめて不適切なところが出てきた場合には、その時点で国大協として複数の制度設計について意見を表明する。
(注1、2とも平成11年現在)
注1:国から国立大学への配分予算総額 私立大学への補助金総額
1兆5,537億円, 3,007億円
注2:国立大学数 99 私立大学数 457
国立大学学生数 621,126 私立大学学生数 1,987,916