(高等教育フォーラムおよび佐賀大学教職員組合への投稿,1999.9.8)
佐賀大学 豊島耕一
「学歴詐称」というのが先ごろ話題になりましたが,この「独立行政法人」化も,少なくとも大学に関しては,官僚組織への従属が強まるものを「独立」と呼び,行政機関でもないものを「行政」法人と呼ぶという,二重の意味で紛れもなく「詐称」です.むしろ後者については,詐称と言うよりは,行政から独立した「教育研究機関」であったものを行政機関のタテの系列にあからさまに組み入れるという,教育基本法10条,憲法23条に背く,違法な政策だと思います.(「行政」法人は名前だけのことだとは言えません.)法律のかた,間違っていたらご指摘下さい.もし私の見方が正しければ,この問題は単に,大学の将来がどうなるかということだけに止まらず,わが国が法治国家なのかどうかという問いでもあることになります.当事者であるわれわれの責任は重いのです.憲法99条に照らしても.
国大協がこれへの反対決議をしてそれほど時間もたたないうちに,これに背くような態度をとろうとしていますが,このようなことを「裏切り」と言うのでしょう.(この決議がウェブ上に見つからないのはどうしてでしょうか(注1).)反対決議の趣旨が国民に十分に浸透するようなアピールの努力を尽したのか,そしてその決議により深い根拠を与えるような理論的な努力を十分にやったのでしょうか.それどころか政府や審議会の動きにただ右往左往している烏合の衆にしか見えません.「条件闘争」(いわば5位決定戦)に移るのがあきらかに早すぎます.これから試合が始まろうというのに,グラウンドに下りようともしないのですから.プレイヤーの片方がすぐにあきらめてしまうのでは,「ゲームの理論」もわが国の国立大学をめぐる攻防には当てはまらないようです.
僭越ながら,同じことは教授会とそのメンバーの一部,つまりわが同僚諸兄姉の一部にも言えます.「独立行政法人」化をすでに既定のものであるかのように話題にし,いかにも「先を読んで」ことに対処しているように装う,非常に小賢しいムードがひろがりつつあります.十年ほど前の教養部解体前夜と同じです.これは,自らが責任ある当事者であることを忘れた,きわめて無責任な,つまりアカウンタビリティーとは正反対の態度です.このような受動的心理こそが「独立行政法人」化政策推進の重要なファクターの一つです.無数の格言がこれを教えています.また,国立学校設置法の改正案(または廃止案)さえもまだ国会に提出されてさえもいないのに「独立行政法人」化が動かし難いものであるかのように見るこのような態度は,やはり法治主義の原則からもはずれています.なぜならそれは,物事は官僚と支配的な政治家連中で決まるもの,という態度や思い込みにほかならないからです.大学にたいする政府・官僚側の最近の一連の「楽勝」をもたらしている主な原因の一つは,この種の基本的な問題(つまり最も重要な問題)に関しての大学教員の「三無主義」(注2)です.
「力の支配から法の支配へ」というスローガンは国際政治の問題だけではありません.
1年前に国立大学全体で「反対」のコンセンサスがあったのを,もう一度それぞれの教授会決議としてあるいは学部長,学長声明として再現することに,少なくとも教授会の民主主義の観点からは困難はないはずです.「独立行政法人」化の内容自体は変わっていないのですから長時間の議論も不要でしょう.このことは「任期制」問題のときと全く違っています.教授会メンバーにはいま個人としての責任が問われています.
組合の役割は重要ですがその限界も見ておくべきです.特に全大教は大きな組織なので,「反対」では一致しても戦術まで合意に至るのは困難でしょう.あるいは,合意できる戦術レベルで「頭が押さえられる」ことになってはいけません.また,組合の声明が持つ国民への影響力の限界もはっきり意識する必要があります.この種の問題での組合の主張には国民はあるバイアスを持って受け止めます.ある意味でこれは当然のことで,組合の主目的は被雇用者の労働条件の向上や権利擁護であり,大学のありかたそのものへの関わりは重要とはいえ二次的なものだからです.組合の指導的立場の人は特にこの限界を心に留めるべきだと思います.したがって「教授連合」のような,この問題での直接の責任主体による,もっと機動的でしかも鋭く問題提起ができるような,全国規模の任意団体が必要なように思われます.教授会決議や学部長・学長声明と合わせて,「独立行政法人」化の問題をあばくアピールに著名な学者や文化人の賛同があつまれば,マスコミを通じて国民に理解が広まるでしょう.
この数日で特に重要なのは国大協臨時総会の対策です.東職の佐々木さんのメールにあるように,国大協の裏切りを許さないよう,国大協,あるいは個々の大学で学長に緊急に圧力をかける必要があります.「阻止できなかった場合」を想定して「個別法」云々の議論が必要との議論は今は成り立ちません.なぜならこのような態度は世間の目には「独立行政法人」化の容認と映り,今の時点では阻止運動と両立しないのです.
(補足)最後から二番目のパラグラフで組合の限界について述べていますが,これだけの文章だと組合はあまり役に立たない,と言っているように誤解されるかもしれません.もちろんそうではなくて,組合の決議や声明にばかり目が行って,教授会や学長の責任があいまいにされていることに注意を促したかったのです.そのような面でもやはり組合の役割は重要で,組合としてこれらの「大学管理機関」の責任を追及すること,組合員である教授会メンバーの責任の自覚を促すこと,これらにも力を注ぐべきだと思います.(99.9.9)