「脳内リベラル」からの脱却

「社会評論」*139号13ページに掲載(04年10月1日発行)

豊島耕一

 この3年間,私は国立大学の独立行政法人化を阻止するためにかなりの努力をした.2001年5月の「独法化阻止全国ネット」の結成に参加し,事務局長として様々なことに関わってきた.

 この,いかにも眠気を誘う名前の政策について,憲法に関わる重大問題であるにも拘わらず,一般の人はもちろん,左翼やリベラルの人々にさえ関心を持ってもらうのは困難だった.この本の読者なら必ず知っている著名な評論家で,憲法擁護の重要な発言をされている方でさえ,「自分は国立大学に関係したことがないので分からない」と言われ,ついに私たちの「全国ネット」への支持を頂けなかった.

 国立大学の独法化とは,私の理解するところでは,(1) 政府が大学に命令する「中期目標」制度が創設され,大学自治に根本的に反し違憲であり,(2) 財政支援の縮小で高等教育費の国民負担が一層強まり,(3) 競争主義と身分の不安定化により研究者の分断化と権力支配を狙ったものである.

 教育基本法改悪の動きという文脈では,とりわけこの法律の「教育は、不当な支配に服することなく」という10条に正面から違反するもので,その明文改悪に先がけてのいわば「解釈改悪」であった.

 法案の国会審議という運動の最終盤では反対運動も多少は盛り上がり,延長国会まで持ち越す程に健闘はした.しかし7月には法案は国会を通過,今年の4月からすべての国立大学は独法化された.なぜこのように簡単に負けてしまったのか.国立大学関係者が強く反対を言い続ければこのような事態にはならなかったはずだ.もちろん中には独法化をむしろ好機ととらえた人もいるようだが,多数は反対ないし不承不承だったのである.

 しかし実際には,まず学長の集まり「国立大学協会」が抱き込まれ,教授会や一般の教授たちの多くが沈黙するという状況が作られて,ほぼすんなりと行ってしまった.なぜ教授たちはイヤなものをイヤと言わなかったのか,ここが問題である.

 様々な要因があろうが,この短いエッセイでは文化的・イデオロギー的な面に注目してみたい.大学教員ほど自由に発言できる立場はないにもかかわらず声を上げなかったのは,ほぼ純粋に文化的な要因によると思われるからでもある.この点,日の丸・君が代問題で大変な抑圧と闘っている小中高の先生たちとは全く事情が違う.

 第一に,自らが所属する組織・集団に対する過度の従順さがある.教授会で,学部長の「意向」なるものに対し,それに不満があっても真っ向からこれに挑戦する人はほとんどいない.あたかも学部長は「宗教的指導者」であるかのようだ. 学部長らは,度重なる文科省詣でのためか行政のイデオロギーに相当感化されていて,独法化反対を公言する人はきわめて少ない.だから,たとえば教授会で反対決議を提案しても,他の教授会メンバーの沈黙のガードによって学部長の「意向」が護られるのである.

 所属集団(の執行部)に対する過度の従順さ,言い換えると,組織対個人の力のバランスが前者に異常に偏る現象は,業界を問わずあらゆるところに見られる.読者の中に創価学会や公明党の方がおられたら申し訳ないが,民間組織の中で,このような傾向はこのグループで最も強いのではないかと思われる.しかし他は違うと言い切れるだろうか? 話は飛ぶが,本誌137号の巻頭エッセイで仲佐氏が平和運動の中央団体どうしの連携がなさ過ぎることを指摘されているが,これもそれぞれの団体の構成員が指導部に過度に従順なため,組織が官僚化し変化する力が弱過ぎるためではないか.

 さらに,このような傾向の文化的背景として私が指摘したいのが「水戸黄門イデオロギー」である.テレビの水戸黄門は罪のない勧善懲悪ドラマなどでは決してない.この永年番組が視聴者の意識下に送り込むメッセージは「最高権力は究極的には善である,中央権力には決して逆らうものではない」というものだ.この,テレビの中高年への悪影響は測り知れないと思われる.政治権力の権威に依存した「道徳」と「懲悪」はあまりにも安易だ.「ソフィーの世界」の著者ヨースタイン・ゴルデルは,カルト教団の教義の安易さを「哲学ポルノ」と評したが,これに倣えば水戸黄門は「道徳ポルノ」である.

 第二に,規模の大きな社会的問題に対処する姿勢そのものの問題点を指摘したい.与党が数を背景に打ち出してきた政策を止めるのはたしかに容易ではない.「賢い」態度は,阻止に労力を費やすのではなく,うまく対処するための準備をすることだ.左翼ないしリベラルのつもりでいる人には,「自分には問題点は分かっている」という心の中での言い訳が付随する.しかしこれでは「脳内リベラル」に過ぎない.

 皆がこの「賢い」態度を取れば社会全体の利益は損なわれる.つまり民主主義は崩壊するのである.必要なのは決定論的対応ではなく,確率論的,非決定論的対応である.「賭ける」態度と言ってもよい.宝くじを買う人は当然この立場を取っているのだが,その態度を社会問題にも応用すべきである(私自身は宝くじはやらないが).さらに社会現象には「非線形性」の要素も加わる.つまり参加人数や他の様々の要因によって「当たる」確率が大きく変動するのだ.(Sept. 2004)



* 小川町企画 発行(06年現在,スペース伽耶発行)