学部長クラスには「電気ショック」*が必要

佐賀大学 豊島耕一

 国立大学の「行政機関化」というアカデミズムに対するかつてない犯罪が行われようとしていますが,私が見聞きする狭い範囲から判断しても,学長・学部長クラスやそれにつながる管理職層に文部省によるマインドコントロールがかなり浸透しているように思われ,これが推進の核になっているようです.密室取引も行われているのではないでしょうか.この心理的メカニズムやその教義を分析し,カウンセリングの効果的な方法を考え出して,彼らが「文部省カルト」から離脱できるよう援助しなければなりません.あるいはカウンセリングができないとすれば,批判によって不適切なふるまいを「抑止」する必要があります.学部長などには「民主的」な人も多いはずで,そのような人が転向してしまった場合は追及が甘くなりがちですが,そうではなく徹底してやるべきです.そのような下からの圧力は,全国xx学部長会議の席での翼賛派からの離脱に少なくとも言い訳を提供することができるかも知れません.
 なお,この文章中での推定はある国立大学の友人との会話によるもので,佐賀大学の学部長の方々についてのものというわけではありません.

 マインドコントロールの原因や背景を推測してみます.

 直接本人個人がその生活基盤への脅しをかけられるわけではないでしょう.なぜなら,この問題での言動で退職金の額が変わったり,ましてやクビになることはまず考えられないからです.とすれば,

1. 全国xx学部長会議の席で孤立したくない,目立ちたくない,文部省からマークされたくない,という心理

2. 教授会メンバーが自分に対して,自分の学部ないし大学の「生き残り」のためには何でもやるべしという「要望を持っている」という理解ないし誤解によって感じられるバーチャルな「下からの圧力」.(教授会メンバーはそれとは知らず,学部長のふるまいを逆に「上からの圧力」と理解してしまう.)これは密室取引や「水面下」での事態の進行という旧弊を受け入れる素地でもあります.

3. 「生き残り」という呪文が思考停止を起こす (注1)

4. とにかく他と同じでないと不安という「横並び主義」

5. 「責任ある地位」になった場合は滅多にはお上には逆らわないものだ,という刷り込み

6. 「平和主義」を権力に対する平和主義と履き違えている

などが想定されると思います.(もちろん藤田理論などを本気で信じている人もいるでしょう.)


 カウンセリングに役立つかも知れないレトリックを考えてみました.それ以外でももし何かの役に立つと思われたら,ここまでの文も含めて自由に切り貼りしてお使い下さい.引用クレジットは不要です.

 しんぶん赤旗,10月8日付けに「政治を問う作家たち 2」として井上ひさし氏のインタビューが載っています.そこで彼は「町のだんな衆」の戦争責任という問題を提起していますが,これは「電線切れ」(注2)の点検・修復に役立つと思われます.

 彼は自分の作品に,地域の有力者が「聖戦」「大東亜共栄圏」「八紘一宇」などのことばをおうむ返しにしながら,戦争に率先して協力した姿を描いてきた,と述べています.つまり,戦争責任者として軍部はもちろんだが「町のだんな衆」も有力容疑者である,と.

 今の「行政法人化」をめぐっても,やはり学部長・学長クラスという「町のだんな衆」が「大学の生き残り」という「聖戦」の,いや,この場合は売「国」のスローガンをおうむ返しにして,率先してこの犯罪に荷担しようとしている姿が見えます.このような「歴史の繰り返し」は,大学教員という人種に少しでもモノを考える力が残っていればなんとか最小化できるはずです.つまりゼロは無理としてもそのような犯罪者の数を大幅に減らすことはできるでしょう.

 将来もし「行政法人化」されたとしてそれから数年経った時には,これに手を貸したり知りながら傍観した人は,自分が重大な犯罪に係わった「戦犯」であることに気付くでしょうが,その時「仕方がなかった」という弁解が可能かどうかを考えてみるべきです.おそらくその人も含めて,多くの人はそのような種類の正当化をこれまで受け入れてこなかったのです.公開中の東映作品「金融腐食列島」で銀行の上層部は罪に問われますが,不正行為を断ち切ろうとすれば彼らには生命の危険まであったかも知れません.国立大学の場合は職を失うリスクさえもないのですから言い訳はなおさら困難です.「善良な」人が冒す犯罪は悪意や激情からではなく,「職務」に忠実であるという「陳腐な悪」(注3)によるものだという定理を思い出す必要があります.

 金融不祥事の問題ではもう一つの教訓をくみ取れるように思います.大蔵省のいいなりになったことが金融業界に何をもたらしたのかということです.いくつかの銀行にとってそれは「生き残り」どころかその反対の滅亡でした.文部省の指導に素直に従う人々は,このアナロジーが大学と文部省の関係にも成り立つかも知れないとは考えないのでしょうか.

(注1) 「『生き残り』病」参照.
../UniversityIssues/survivalism-syndrome.html
(注2) 「大学が批判力を獲得するには」項目10参照.
../UniversityIssues/jsantalk.htm
(注3) ハンナ・アーレント,「イェルサレムのアイヒマン -- 悪の陳腐さについての報告」,みすず書房,1969年.

(追記)
藤田宙靖氏講演のテキストが本人のホームページ(http://seri2.law.tohoku.ac.jp/~fujita/)に掲載されています.その中に重要な記述があります.「四 問題点への対処とその具体的方向」の第8パラグラフで,「中期計画の認可」は「大学自治に対する著しい制約ともなりかね」ず,しかもこれを個別法で適用除外にするのは「かなり難しい問題」であると正直に認めているのです.もし彼が自説にこだわるのであれば,この文書を自分のホームページに掲載するのは得策ではないと忠告したいくらいです.

(弁解) 表題の「電気ショック」というのは下品である,テロを連想させる,という批判を同僚から受けました.この表題が学長・学部長の方々に対して相当失礼なものであることは承知していますが,事柄の重大性に鑑み,言葉のインパクトの強さの要求を優先しました.「電撃的な強い印象を受けた」とか,「雷に打たれたような啓示を受けた」という言い方がありますので,「電気ショック」,つまり「電撃」がテロを連想させるというのは当たらないと思います.精神神経科で「電撃療法」というのがある(またはあった)ようですから,むしろ医療用語の方に近いかも知れません.