独法化反対を表明・実践しない人に真の改革を語る資格はない

佐賀大学 豊島耕一

 独法化問題をめぐって,しばしば「反対を唱えるだけではどうにもならない.こちらの改革を提案していかなければならない」という言説がなされる.後段の「改革を提案」の必要性・重要性についてはだれも否定しない.(つまりその是非は議論のテーマではあり得ない.)しかしこれら二つのフレーズの間の接続詞,“だけでは”には重大な問題がある.この表現は反対運動に心理的ブレーキをかける作用がある.つまり具体的改革案を持たなければ反対運動をする資格がない,という暗黙のメッセージを含むのである*.さらにこのバリエーションとして,「反対運動も大事だが,“それよりも”自分たちの改革案を出していくことが“より”重要だ」という言説によって,みずからが積極的に反対運動をしていないことに対する免罪符レトリックになる場合もある.

 これらは,心理的・レトリック的仕掛けとしては極めて初歩的で幼稚なものだが,これに引っかかる「インテリ」が少なくないことには驚かされる.根本的な問題で現状より悪化させる提案に反対することは「改革案」の最低条件なのである.これは出発点であって,この事を表明し実践しない大学人に真の改革案を語る資格はない.

 また,「改革を提案」という場合,多くの人がすぐに制度改革のことを連想してしまうが,これはまさに官僚思考そのものである.官僚にとっては書類の束が出来ないことには仕事をしたことにはならない.そしてそれを量産するテーマは制度改変である.しかし今日の国立大学がかかえる問題の原因はその制度にあるのだろうか?

 かつて設置基準「大綱化」によって教養課程が「自由化」された.しかし実際に起こったことは,何の強制力もない,そして実際に行われたという「証拠」すら明白でない「行政指導」によって,全国の教養部がほとんどすべて解体されたことである.つまり問題は,自由化が画一化につながるというこの国の大学関係者の官追従のメンタリティーそのものであり,文化である.そしてこれは今また,官の号令下るや腰が萎えて,反対のはずの「独法化」に明確に反対さえ表明できないという精神状況をも現出している**.

 別の,非常に実務的な例を挙げよう.ごく一部かも知れないが,非常勤講師への給与の支払いが異常に遅いケースがあるようだ.定職を持っていて付き合いでやっている人にとってはさしたる問題に感じられないだろうが,そんなにゆとりのある人ばかりではないはずだ.だいいち世間の常識に反しているし,「給料の遅配」そのものである.物品などの代金の業者への支払いも遅いのではないかと心配する.請求書・納品書などに日付を入れさせない事もあるようだが,もしこの欄に後で大学側が書き込んでいるとしたら,「私文書偽造」に当たるかも知れない.

 このような問題は,制度の問題であるどころか,逆に制度が守られていない,つまり法律や常識が守られていないということを意味するだけである.国立機関なら給料遅配をしてもよいなどという法律はないはずだ.このような事をあげつらって「だから国立大学制度はよくない」などと言う人があればお笑い草である.もし物品調達の事務手続きが現実に合わないというのであれば,そのことをこそ変えるべきであって「国立」であることを変えるべきだ,というのがおかしいのはだれでも分かる.(2001.12.26)


* もう一つの重大な含意は,「改革案」なるものがまだ誰からも提案されていない,というものである.もちろん決してそんなことはない.

** かつて銀行の債権回収が問題になったとき,やくざがらみの案件に対しては,銀行の担当者は自分の命まで危険に晒さなければならなかった.今,大学首脳部が独法化反対を叫ぶのに,これに比べても一体どれほどの勇気が必要なのだろうかとも思う.