われわれは運動が「最適化」されているかどうかに注意を払う義務がある

豊島耕一,文通団'reform'への99年4月14日付投稿
(改訂 4月17日)

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1.活動の3つの側面

大学審答申関連法案をめぐっては,次の3つの面での活動のどれもが重要だと思います.

(1) 国会対策
(2) 国民へのアピール
(3) 大学(教授会)の発言責任の追及

 全大教の動きを私が知る限りでは(1)しか見られないようです.しかもその内容ははっきりせず,与野党の議員にどう有効に働きかけられるのかもよく判りません.傍聴,つまり単なる国会見学を中央「行動」などと称しているのではないかという印象さえ持たれます.
 もし与野党の議員に有力なコネクションがあったとしても,国民世論の理解や支持がなければ,実際に国会情勢を変えることはできません.(文教委員会の29名中18名が連立与党でしめられているのです.)したがって項目(2)はエッセンシャルです.そのためにはマスコミに取り上げられるような方策を工夫しなければなりません.組合で「声明」さえ出しておけば仕事は終わり,という態度では困ります.マスコミに乗らなければそれは国民には届きません.(独自に全戸配布などができれば別ですが.)そのような面での提案が全く見当たりません.東京私大教連などが13日に東京,文京区民センターで開催した講演会に全大教は加わっていませんが,このような種類の集会や,デモなど,多彩な形態の行動が必要です.
 しかし,項目3に挙げたように,組合よりも何といっても本当の当事者である大学自身の,つまりその法律上の中核である教授会自身の発言が必要です.全大教が出した声明などにはこのことが触れられていません.
 この教授会の責任についてですが,全大教の教員メンバーの多くがその責任を個人として担っているのであり,組合が指摘すればこの自覚が遅からず「活性化」することは明らかです.教授会で反対決議などを提案しても不首尾に終われば無駄ではないか,という考えがあるかもしれませんが,これは間違っています.なぜならそのことによって,他の教授会メンバーの何人かに問題意識を持たせることは出来るし,もしそれを強く与えたにも拘わらずそれでも沈黙していたとすれば,それらの人たちに「不作為の責任」を発生させるからです.また,可能か不可能かについて安易に予断を持つこと自体が謙虚な態度からはほど遠いと言うべきです.(この文通団の参加者の皆さんにも,もし法案の重大な問題性に気付き,しかも教授会の責任も自覚されたとすれば,その時点で同様の責任が発生していると思います.)
 前回の「任期制法案」の時にもし教授会での議論がなされていれば,現在の教授会の対応も大いに変わったはずです.この法案が成立すれば大学とその自治は大きなダメージを受けるでしょうが,絶滅するわけではありません.「大学問題」は今後も「問題」であり続けるでしょう.「次の試合」のことも考えておかなければなりません.

2.「拙速な法制化」という批判について
 3月23日付けの全大教・私大教連名の声明に「拙速な法制化」に反対するという言葉がありますが,この表現には少し問題があると思います.「拙速に反対」という批判はもちろん可能ですが,それを全面に出すと特別の意味を持ってしまいます.中味を棚に上げて「時間稼ぎ」をしているかのような印象もさることながら,「拙速」という言葉に「大学の意見を十分に汲み上げていない」という意味あいが加わると,大学は文部省と一体となって法案を準備すべき立場にあるかのような印象を与えます.大学の意見を十分に取り入れることは必要だし好ましいけれども,それは絶対条件ではありません.行政は行政の立場で法案を準備することが出来るのです.また仮に「拙速でない」,つまり大学の意見を十分に聴取するプロセスが取られたとしても,法案の責任は行政当局にあるのであって,これに対して大学はあくまで自由に意見を表明することができなければなりません.「窓口一本化」されているわけではありません.
 批判のスローガンはあくまでその内容に関することを主眼とすべきです.

3.再度「議長問題」について
 学部長を教授会議長に法定することの問題点の指摘にはどなたからもフォローがないようですが,もう一度繰り返したいと思います.
 現在の学部長は,法律上は「機関」でなく教授や助手などと並ぶ一つの「職種」にすぎません.したがって学内規則で教授会議長は学部長がなると決めていても,それは単に教授会議長の別名を「学部長」としていることにすぎないとも言えます.しかもこのことは大学自身で変更可能です.しかし改正案では学部長を執行機関と規定した上でこれに教授会議長を「兼任」させることを法定するのですから,自治の無視と執行機関と議決機関の混同という,二重の誤りを犯すことになっています.
 この問題は,全大教などが指摘する他の問題に比べて相対的に小さな問題かも知れないし,あからさまな自治の侵害,非民主的管理運営とは理解されにくいかも知れません(私には十分にそう思えるのですが).しかしこれは「リーダーシップ」の是非云々の問題を超えた組織運営の基本的なルールに関わるとても普遍的なことがらなので,これへの批判は広範な人々の理解と共感を得られる可能性を持っています.このような「素材」をみすみす見逃してしまうという手はないはずです.
 全大教ばかりを頼りにせず,またその「指示待ち」に陥ることなく,個人,グループ,単組,諸団体などで多様な行動を考える必要があると思います.


 余談です.「概算要求」でイジメられる「かもしれない」という”リスク”に怯えるような,常軌を逸した臆病さがはびこる中で,本当のリスクとは何か,市民の責任とは何かを考えさせてくれる文書を入手しました.大学改革とは関係ありませんが,是非皆さんに紹介したいと思います.平和教育とは大いに関係があるでしょう.もちろん「周辺事態法」とも.

"Civil Society and Global Responsibility: The Arms Trade and East Timor" by Angie Zelter, 1997

 日本語訳 ../peace/angie.htm
 原文   ../peace/zelter.htm

2000年6月追記:この文章は岩波の月刊誌「世界」99年11月号に掲載されました.また,著者の最近の活動についてはゴイル湖の平和運動家を支援する会のページをご覧下さい.