「民間大学審議会」の提唱
  ver. 1.1.
(「科学・社会・人間」'96年1号に掲載)
                       佐賀大学教養部 豊島耕一
1.大学審議会ののさばりに異議あり
 大学審議会の答申(管理運営の効率化)や中間報告(教員任期制)が出され,各方面からいろいろな見解が出されている.しかし当事者である大学自身(教授会や学長など)からはこれに対する有力な批判やオルターナティヴが示されてはいないし,その気配もない.さらに,全大教は「教員任期制」については条件付き賛成と取れるような発言をしており,また,一般の教員の間では,「いずれそのようになるだろう」といった,受け身的な無気力が支配している様に感じられる.これは,最近のいわゆる大学改革が,大局的には文部省のいいなりに進められ,一般の教員はこれにただ巻き込まれるだけ,という経験によって基礎づけられている.
 これは憂慮すべき事態であり,急いで是正しなければならない.どのような提案であれ,それがきちんとした論争なしに実行に移されることはさまざまな問題を引き起こす.(これは,全国画一的で性急な一般教育改編のプロセスですでに経験ずみである.)当事者自身が無気力であることはこの論争の基盤すら存在しないことを意味し,とても容認できる状態ではないのである.したがって何よりもまず,「いずれそのようになるだろう」という思い込み,マインドセットを取り除くことが第一のステップである.我々の発言を抑えようとする敵は実は我々自身の心の中にある.
 このことの助けになることの一つは,答申や中間報告を出している大学審という組織が文部省設置法や教育基本法にてらして違法な存在だということを思い出すことだろう.この観点から佐賀大学教養部の教授会はかつて,この設立法案に反対の声明を出した(注1).時間が経っても違法なものが適法なものに変わることはない.違法な組織の言動に対処するのだから,何もはじめから無気力にならなくてもよいということだ.それどころか,違法組織に加わっている同僚には「脱会」を説得する事も考えなければならない.
 違法な組織が出した文書とはいえ,答申や中間報告の指摘する現状の問題点は,それらを断片的にとらえればもちろん当たっていることも多い.(あくまで断片的にであって全体としてではない.なぜなら視野の設定がズレているからである.大学審の視野は,道に落ちているかも知れない10円玉を見つけるのには向いているが,行き交う車は目に入りにくい.だからそのうちトラックに轢かれてしまうのである.) そしてその問題点を根拠にいろいろな提案がなされている部分もあるので,これへの批判だけでは世間に対して無力であり(注2),有力なオルターナティヴを提示しなければこれに十分対抗できない.しかし今のところ大学の中にはこうした組織的取り組みは見られない.国大協や「全国OO学部長会議」など「体制的」組織には今日ほとんど批判力が期待できないし,組合など伝統的な「反体制」勢力も,批判はするだろうがそれだけに終わりそうな気がする.(あるいはそれが労働組合というものの自然な限界なのかもしれない.)したがって第三のグループの形成が求められているのである.すなわち行政機関のではない,大学関係者自身も含む国民的な「民間大学審議会」が作られなければならない.
 このような作業グループが形成され,一定の影響力を持つようになれば,議論らしい議論もされずに「改革」がまかり通るというこれまでのパターンは少なくとも回避されるだろう.しかしこのような努力にも拘わらず,大学審流のやりかたで押し切られる,つまり負けるということは十分あり得る.たしかに勝ち負けは大事だが,オリンピックではないけれど論争に「出場する」ことはもっと大事である.そのプロセスの中で,大学とは何か,自治とは何かという面での知的財産が蓄えられるからである.そしてそのような無形のものこそ大学にとって最も重要なものなのである.それは今日ではなくてもいつの日か実際に役立てられ,また利子を生むことになろう.ちなみに大学とは文化運動であり,したがってその最も重要な要素は無形のものである.すなわち学問そのものであり,それを守り,また新しいものを付け加えていくノーハウやマナーである.
 つぎに,そのようないわば「民間大学審議会」のための検討の素材として,答申と中間報告についての私の考えを述べる.

2.答申の視野と現実の風景
 「答申」は大学の意志決定が非効率であるとして,教授会の議題の「精選」という言葉で実際は「制限」を求めている.この間の「大学改革」において,学内の冷静な議論の時間を与えることなく,いろんな重大な決定がきわめて「効率的」になされたことが多いようだが,大学審はこのスピードでも不満らしいのである.管理運営の問題で実際上最も深刻なのはむしろ,大学の持つ法的権限が無視され,文部省による官僚支配がさまざまな形態で行われていることである(注3).設置審の違法な運用や(注4),予算編成の実務を握っていることを悪用した大学への恫喝である.このほか,人事の面での問題を一つだけ指摘しよう.国立大学は事務局長の人事権を実質上持っていない.現在のシステムは文部省からの「天下り」である.私大への天下りは大いに問題にされるのに,国立大学ではあまり問題にされないのは不思議である.中央政府の役人,あるいはもと役人に大学の中枢が牛耳られて重大な自治の侵害が起こりやすいという点では,国立も私立も事の性質は同じはずである.
 実はこの官僚支配が大学の「無力感に由来する無責任」を生み出している.つまり,改革案の作成に際して「どうせこのような案しか文部省は認めないのだから・・・」という言葉がしばしば聞かれるのである.大学審議会はこのような今日の大学のリアリティーには全く関心がないようである.文部省のおかかえ機関であってみればればやむを得ない限界だろう.

3.学外者の関与について
 次に,「答申」が問題にしている,管理運営への学生や学外者の関与について述べる.大学審が指摘するまでもなく,「教授会自治」だけではうまく行かないことはすでに70年前後の大学紛争の時代からすでに明らかだったのであるが,大学は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざどおり,学生運動の沈静化と共にこの問題を忘れてしまった.大学に限らず,どのような組織でも部内者だけの閉鎖的な運営では健全さを保つのは困難なのである.民間中小企業の場合は組織が不健全になれば倒産できるが,国立大学には大企業と同じでそのようなメカニズムは働かない.したがって他者によるチェックが必要なのだが,しかしこれを政府に頼むわけにはいかない.なぜなら公権力による内容的関与は教育基本法に抵触するからである.政府が関与できるのは,会計検査のような限定されたものでなければならないが,他者によるチェックはそのようなものでは十分とは思えない.
 しかし大学審が言う「参与」など学外者の関与は,答申が「各界の有識者」や「産業界」という言葉を使っていることからも,政界や産業界などの「有力者の関与」になるだろう事はあまりにも見えすいている.およそ国民一般が大学に意見を述べるということからはほど遠いものになろう.この問題ではむしろ,学外者よりまず先に学生の発言権の制度的保障を考えるべきである.つまり委員会などに学生代表を加えるのである.これによって教授会の独善や鈍感さはかなり予防できるだろう.
 もしそれでも不十分だと思われる場合は,「大学陪審員」,つまり学生の保証人や地元の住民などの志願者から抽選で選び,御意見番を依頼する.これがどのような権限を持つのかはもちろん我々にとって深刻な検討課題である.(無権利では単なる飾りものになってしまい,なり手もないだろう.しかし権限が大きすぎては大学の自治がなくなってしまう.)抽選というところがミソで,これによって政治力学のような余分の要素の入り込む余地がなく,一般国民の考えが歪みなく反映されるだろう.
 学生の関与についても答申は触れてはいるが,「必要に応じアンケート調査」を例示するに止まっている.これは大学審が学生を正当な発言権を持った大学の構成員とみなしていないことを意味する.(教員であるあなたに対して,教授会や委員会での発言権の代わりにアンケートだけで我慢しろと言われたらどう思いますか?)

4.中間報告について
 中間報告が述べる教員任期制については,簡単に触れるだけにするが,「任期制」といえば聞こえは悪くないが,実は教員の身分保障の廃止ということである.これがわが国の儒教的な精神風土とグロテスクなほどの官僚支配の中で実施されるのだから,学内の封建的な支配や行政権力の支配の道具になり,教員がますますものを言わなくなり,わずかに残された自由の気風もなくなってしまうだろう.
 ところでこの問題で重大なのは,部分的とはいえ我々がこれをすでに導入してしまっているということである.つまり外国人に対してはすでに任期をつけているのである.この日本人と外国人との「区別」には合理的な根拠を見いだせないので,国籍による「差別」を行ったことになる.重大な反省が迫られる.
 この問題で一言つけ加えておきたいのは,これを主張する中間報告の文章のお粗末さである.噂だけにもとづいており,しかもそれを論理性なく任期制の結論に結びつけている.メンバーは今になって冷や汗をかいているに違いない.著者の中に現役の大学関係者がいるとすれば,このような作文にかかわったことでその人の基礎学力が疑われる.任期制が導入されたときには真っ先にその人に適用されてしまうだろうことは確実である.(1995年11月25日)

(注1)佐賀大学教養部教授会,「『大学審議会設置法案』に対する見解」,1987年5月7日.実物は筆者または教養部事務まで.インターネットが利用できる方は次のftp サーバーのファイルをご覧下さい:
ftp://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/pub/UniversityIssues/daigakushin-houan.txt
(注2)批判活動の重要性は言うまでもない.批判はそれが的を得ていれば,「対案」を同時に示すかどうかにかかわりなくそれだけで正味の貢献である.(注3)この点に限らず日本のアカデミズムの現状に対する最も徹底した批判は,井口和基氏の「三セクター分立の概念 日本社会の構造的問題とその解決の方向」(近代文藝社,1995年)に見られる.この本では批判だけでなく著者なりのオルターナティヴが同時に示されている.
(注4)豊島耕一,文部省の違法行為・従順な大学,「科学・社会・人間」53号,1995年7月.または次のftp サーバーのファイルをご覧下さい:
ftp://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/pub/UniversityIssues/obedient-
universities