恐れるべきは「恐れ」そのもの

佐賀大学教職員組合「組合ニュース」No.32(2001年1月31日)に掲載

佐賀大学理工学部 豊島耕一

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1. 独立行政法人化をめぐる情況

国立大学を「独立」行政法人に変えるという方針に文部省(現在の文部科学省)は従来反対していましたが,一昨年この受け入れに「変節」しました.それ以来大学首脳部は腰抜け状態となっています.口では「反対」と言って態度が変わっていないかのように見せかけながら,実はこの社会のどこにでも見られる「構造的脅し」にすっかり金縛り状態となって,「もはや避けられない」とあきらめ状態になっています.

しかしこれは,我が国の教育と研究に責任を持つべき職業集団の態度としては許されないものです.なぜならこの制度変更に根拠を与えるべき法律の骨子さえも作られておらず,したがって国会はこのことを何も知らないのですから,この段階で批判や反対を諦めるというのは,国会無視だけでなく国民への「説明責任」の放棄でもあるからです.

2. 独法化とは何か

国立大学の独法化がなぜ誤りであるのかということはすでに多くの人によって論じ尽くされていますが,やはり憲法や教育基本法に照らしての,その違法性については繰り返し強調しておくべきでしょう.すなわちこの制度が大学に適用されれば憲法23条(学問の自由)と教育基本法10条(不当な支配の排除)に違反することは明白なのです.これは独立行政法人を定義した「中央省庁等改革基本法」のいくつかの条文を見れば分かります.いわばこれは教育基本法改悪の先行実施であり,明文改悪の重要な地ならしなのです.

この制度は「独立」の接頭語とは正反対に,これまで曲がりなりにも政府から独立していた国立大学を文部科学省の地方出張所に変えるものです.

3. 国大協,組合の対応の問題点

ことがらがこのような原理的な問題を含むにもかかわらず,国大協や各大学首脳部の多くはあまりにもおざなりな態度をとっています.その現れの最大のものが,文部科学省に設置された「調査検討会議」への国大協の参加です.この会議が独法化を前提にしてその具体案を作るためのものであるにもかかわらず,「反対」の国大協がこれに「積極的に参加」するというのですから,精神分裂病でなければ「反対」はポーズだけということになるでしょう.

参加を正当化する人の中には,会議に参加する中で本質的な変更をさせうると考えているかも知れませんが,それは脳天気な自己過信です.逆に,今の段階ではもはや「条件闘争」しかないと判断するのは運動の自主規制ないし自主撤退に他なりません.

大学当局だけでなく組合の態度にも最近は「二重姿勢」の傾向が感じられます.つまり表向き反対だが実は独法化を前提にしての対応準備に重点を移すという態度が見られるのです.例えば組合のビラで「独法化反対」の文章のすぐ後に密接して「独法化されたら組合の役割は一層強まる」という言葉が無神経に並べられたりしているところに,それが現れているように思われます.

4. 国大協とは何か

国大協というものは大学の内外に大きな影響力を持つようですが,しかしこのような重大な問題についてこの組織に国立大学全体を代表する資格があるかとうかと言うことが問題です.会則の4条は国大協の目的を次のように規定しています.

協会は,国立大学相互の緊密な連絡と協力をはかることにより,その振興に寄与することを目的とする.

この目的条項からして,国大協が国立大学を国立大学でなくすような決定や活動に関わることはできないはずです.他に代わるものがない,という理由で,この学長だけからなる非民主的な組織にかりに発言権を認めるとしても,それは何ら絶対的なものではなく各方面からの批判に晒されて然るべきです.(注1)

しかし大学の組合だけでなく一般の組合や政党,進歩的世論も,国大協をいわば「聖域」化して公然と批判しようとしません.これでは国大協の誤りが訂正される機会が失われてしまいます.これは是非とも避けなければなりません.

5. 「闘い」の回避という精神状況

上に述べたような非常に軟弱な態度の背景には,「闘い」からの逃避という傾向が広がっているという情況があるのではないか,原理原則に正直であるということを軽んじる,あるいは嘲るようなシニシズムの蔓延があるのではないかと思います.そのような精神的荒廃を「力関係」だの「条件闘争」などといった,およそ「闘う」人しか使うはずのない言葉で誤魔化してはいないでしょうか.方針を「安全第一」なものにすることで「負ける」事をどうしても回避したいという傾向が強く感じられるのです.「勝ち組・負け組」イデオロギーの影響かも知れません.しかし「負け」の可能性ゼロの「闘い」は闘いではないのです.

「条件闘争」派はおそらく,「調査検討会議に代表を出してギリギリの線までわれわれの主張を入れさせた」などという説を広めることになるのでしょう.しかしこれは,「母屋は取られたが厩舎に住むのを許された」と言って喜ぶようなものです.

6. 恐れるべきは「恐れ」

上に述べた「構造的脅し」,あるいは「構造的恐怖」の一例は,「文部科学省に逆らうと,実際に独法化されるときに自分の大学が不利な扱いを受けるのではないか」という自己暗示です.これを信じる同僚,あるいはこれを「理解」してしまう世間の方々は,是非とも次のフランクリン・D・ルーズベルトの大統領就任演説での言葉の意味について考えていただきたいと思います.「格言」として認める人もあるようですから.

「そこでまず初めに,私の信念を述べさせて下さい.我々が恐れなければならない唯一のものは恐れそのものです.それが何かも言えず,理屈にも合わず,理不尽な恐れ,後退を前進に変えるのに必要な努力を麻痺させる恐れです.」(筆者訳,注2)

闘う前に「敗北」を選ぶのは不健全な精神状態の結果であり,またその後の精神衛生にも悪いのです.

2001年1月21日)


(注1) 例えば,この30年で数十倍にもなった国立大学の授業料値上げに対して,この団体は,一片の「申し入れ」以外に,これを阻止すべく何か有効な行動をとったでしょうか(不作為の責任).また偏差値競争の一元化に寄与した共通一次導入に対して,何かの「総括」を行ったでしょうか(自己点検・評価の欠如).

(注2) http://www.re-quest.net/history/inaugurals/fdr/index.htm