主権者のための,主権者としての教育を

佐賀大学 豊島耕一

「21世紀 教育へのアクセス。」33頁.福岡県高教組発行,2002年3月

抑圧し,抑圧される学校
ささやかな上申もタブー?
「国家及び社会の形成者」のための教育
平和教育
学校がするべきでないこと
大学の責任

 私は20年余り大学で物理教育に携わっており,また学齢期の子どもを持つ親として,子どもの通う学校にPTAのメンバーとして(そのうち2年は役員として)中学校に,さらに高校には保護者会(PTAに相当)総会に数回出席して発言したことがある.このようなことが私の「教育界での経験」である.また,職場の国立大学ではこの十年来いわゆる「改革」現象のさなかにあり,行政と大学との関係などについて多くのことを考えさせられた.このような中で感じたこと,考えたことなどが以下に述べる私の意見の背景をなしている.

 与えられた執筆のテーマは,「これからの時代に求められる人間のあり様について」であるが,この言葉からはかつての中教審の「期待される人間像」を連想してしまう.時代が人間を求めると同時に,人間が時代を作るというのが,いわば作用と反作用のように常に対のものとして考えなければならない.教育基本法1条が後者を重視しているにもかかわらず,前者ばかりが言われる傾向がある.後者がもっと強調されなければならないとの立場から,この側面に重点を置いて論じて見たい.

抑圧し,抑圧される学校

 今の教育に欠けているものは何かと問われれば,私は第一に,この社会の主権者つまり主人として,はっきりと自己を主張し,それを社会に反映させるために必要な知識,ノーハウ,そして勇気を与えることであると思う.「欠けている」というよりむしろ,今日の学校教育はこれらの能力の発達を抑圧しているのではないだろうか.

 その原因はいくつかあるが,そもそも「学校」は「組織」であるという不可避的な要素にまず求められる.すなわち,組織の運営にはどうしても何らかの秩序は不可欠であるが,もし組織のメンバーが管理者の言うとおりに動いてくれれば管理者にとっては最も手間がかからない.管理者が易きに流れた場合(誰しも人間としてその傾向を持つが),あえて構成員に「自己主張」と「自治」とを奨励するのは自分の仕事を難しくするだけだと感じられるであろう.

 加えて,我が国の公立学校は行政からの相対的な自立性もほとんど持たず,強い官僚統制下にある.上からの指示を忠実に実行しようと考える「真面目な」校長にとっては,生徒の権利や自治などということは胃の痛みをふやす以外のこととは考えられないだろう.もし生徒が「日の丸」がイヤだと言ったら,すぐにそれに従わないまでも少なくともそれを尊重しなければならないが,そうすると短期的成果の要求,つまり「実施率」の圧力に直ちにさらされるであろう.

 学校制度をやめるわけにはいかないが,組織というものが固有に持つこのような傾向について構成員が自覚を持つだけでも,この種の抑圧はかなり予防できると思われる.他方今日の学校への官僚統制は,公的組織として一般的に必要とされる管理の水準をあきらかに逸脱しており,また「指導・助言」の範囲と言えるものではない.すなわち教育基本法10条の「不当な支配」の禁止に抵触する違法状態にあると思われる.教育基本法に罰則がないから放置してよいというものではないはずだ.

ささやかな上申もタブー?

 公立学校がいかに官僚的な統制下にあり,自主性を奪われているかについてのささやかなエピソードを紹介しよう.私が中学校PTAの役員をしていた7年ほど前のことである*.最近もあまり変わらないように思われるが,当時校長が一つの学校に在職するのが3年程度しかなく,次々と入れ替わっていく情況であった.このような短い期間ではその学校と教職員を知り,その上で学校経営の方針を打ち出していくということは不可能であろう.ましてや学校を取りまく地域や住民との深い交流など望めないだろう.そこで,役員会で話し合い,このような短期のローテーションで校長の人事をやるようなことをやめるよう求める決議をPTA総会で行って,教育委員会に要請しようということになった.ところが総会の当日になってみると,合意に参加した三役と校長・教頭らが,このような決議案の提出はやめようと言う.私は反対したが他の役員は三役らに同調し,結局提案は見送られた.

 校長が実際に「お上」にお伺いを立てたのか,それとも自分で判断してやめることにしたのかは分からないが,たとえ校長の頭の中での心理現象であったにせよ間接的には教育委員会の圧力の作用であることは間違いないと思う.この程度のおとなしい決議案さえ,PTAが自主的な動きとしてお上にものを言うというのは畏れ多いことだと見なされるのである.

 このささやかな一件はまた,PTAの学校からの独立性についても問題を投げかけている.校長が心理的な圧力を感じた背景には,PTAのやることにまで校長に責任があると見なされているという実態がある.実はPTAの役員の一人に校長が自動的になることが規約で決められており,組織上も学校からの独立性を持たないので,校長がそのような「責任感」を感じても不思議ではない.

 このように校長が,教育行政当局との正常な関係からかけ離れた,いわば隷属状態にあり,また職員がその校長に隷属しあるいは校長の立場を配慮してその上にある行政に自主的に隷属している,という情況は,今日の公立学校にかなり広範に見られる現象ではないだろうか.だとすれば,そのような情況にある教員集団が生徒に自主性,自己主張を奨励するということも少ないだろうし,また言葉だけのものに終わる可能性が大きいだろう.

「国家及び社会の形成者」のための教育

 以上は「主権者教育」---あえて「帝王学」と言ってもよい---のいわば基盤的条件についてである.このような状況を改善することは組合の重要な任務の一つであろう.さて肝心の教育内容そのものについては,やはり直接的に関係する分野である「政治教育」が重視されなければならないと思う.政治教育では現実の政治現象をその素材とすることも必要なので,「政治的中立性」との関連で教員が臆病になる傾向があるのではないかと思われる.自信過剰と臆病とのバランスが保てるような,行政と世論の寛容さが求められると思う.現状は極端な臆病状態にあるのではないかと想像する.

 「帝王学」のもう一つ重要な分野は,いわゆる「メディア・リテラシー」教育である.今日の社会では,マスメディアによって切り取られた範囲での「現実」に対し,さらには意図的にか無意識にか特定の価値観で色づけされたバーチャルな「世界」に対しての個々人の意見が形成され,それが「世論」として政治に作用していく.したがってメディアによるこれらの情報加工や情報操作のメカニズムを解読する能力を民衆が持っていなければ,メディアが提示する「仮想現実」の背後にある真実に近づこうとする努力が弱まり,民主主義そのものがバーチャルなもので終わってしまう.数年前のアメリカ映画「トゥルーマン・ショー」がこのような情況を象徴的に描いている.

 しかしメディア・リテラシーにおける最も重要な要素は,メディアに対する主権者意識の涵養であろう.マスメディアは公器,つまりパブリックなものであり,主権者である国民("people" の訳語としての)には,これの受け手としてだけではなく,送り手の立場としてのアクセス権があるのだという認識が重要である.

 他の教科においても主権者教育につながるような素材がことさら無視されないようにすべきだろう.例えば歴史では,権力者の物語ばかりを暗記することが奨励され,一揆のような民衆のイニシアティブによる活動はほとんど教科書に登場しない.このような情況を変えなければならない.地元でも1771年の「虹の松原一揆」のように,民衆の力で平和的に藩に要求を認めさせたという,りっぱな民衆運動の実績が存在するのである.

 実践もまた重要である.社会を成り立たせるには「自己主張」とそれを集団の中で調整する能力としての「自治」が不可欠であるが,他の能力と同様これらもみずから実践する中で養われるからである.学級レベルから学校全体にわたる生徒会が,形式化儀式化したものになっていないか,生徒の現実の要求を取り上げる組織になっているかどうかが問題である.さらには,その代表を現在構想されている「学校評議会」などに参加させ,みずからの学校の運営にも,つまり「実社会」レベルの実践にも関与することが本質的に重要である.

平和教育

 私が強調したいもう一つの分野は平和教育である.ユネスコは一貫してこの重要性を強調している(例えば98年の高等教育世界宣言[1]).この数年,県の「教研」の平和教育分科会に参加してきたが,そこで感じられたのは平和教育を進める上での困難のひとつとしての管理職の理解の問題である.どうもこの分野を左翼偏向教育とでも思っているのではないだろうか.不幸にもそのような管理職と衝突しそうなとき,またはそれとは関係なくても,一つの方法として日常の授業の一部で,あるいは授業の中のいくつかの言葉で,少しずつ実践することもできるのではないだろうか.もちろん「平和教育」の看板を掲げての量と深みを持つ授業の重要性は言うまでもない.

 平和教育者にとって,その実践を効果的たらしめるには,学校のありかたが抑圧的であることを問題にしないわけにはいかないと言うことを申し上げたい.狭い意味の平和教育でいくら戦争の悲惨さを教えても,日々の生活では生徒が強い抑圧を受けているのであれば,それはなんらかの心の歪みとして,攻撃的なプロパガンダや煽動を容易に受け入れる素地が作られるだろう.いわば,「平和授業」以外では常に戦争教育を受けているようなものである.これでは平和教育の効果も減殺されてしまう.抑圧的な社会は,見かけは平和でも,戦争がつねに潜在している社会であり,しかもわずかな刺激でそれは顕在化する.ソ連の崩壊で「冷戦」という言葉の使い道がなくなったが,このような抑圧的な学校社会のありかたを表現するのに転用したらよいかも知れない.

 学校の抑圧性とかなり深く関係しているのが今日の「受験戦争」である.平和教育者はこの言葉を単に比喩の問題として受け止めるべきではない.これは生徒を「万人の万人に対する闘争状態」に置くことで平和主義的な価値観や感覚を受け入れる素地を奪う働きをするからである[2].「戦友」さえいない,たった一人の戦争である.「共通一次」によってこの戦争はいっそう精密化された.完全な「停戦」は不可能だろうが,現在のような「全面戦争」からせめて局地戦へとそのレベルを下げることは可能だし,ぜひともそうしなければならない.

学校がするべきでないこと

 最後に,「学校がなすべきこと」や「学校の責任」がさかんに議論される反面,「学校がするべきでないこと」についての議論がほとんど行われないことの問題を指摘したい.前号の第二次提言である94年版の「アナザーアクセス」[3]で木村晃郎氏が述べておられる点とも重なる.学校はどう頑張っても差別を作り出す装置なのである.理由は簡単で,学校がなければ「出来る子」も「出来ない子」も生まれないのである.関係者はこのことを常に肝に銘じておかなけれはならない.すなわち,不可避的に発生するこの差別を最小化し,決して余分な差別をこれに付け加えないように心がけるべきなのである[4].

 しかし現実にはあまりこのような注意は払われず,学校が余計な事をいくつもやっているのが実態である.強制的な課外授業,バイクの禁止など私生活時間や領域への介入,あるいは「国旗・国歌法」制定後はその強制が一段と強まることによる内心の自由への侵害が心配される.お節介は個人の自立を遅らせる.

 「偏差値」に代表される受験学力を嫌悪するあまり,代わりの生徒評価の尺度として「全人格的評価」を云々する向きもある.しかしこれは偏差値主義以上の害悪をもたらすことに気付くべきであろう.そもそも学校にそのような権限も能力もあるはずがない.学校に限らず,人の全人格を評価できるような組織も個人もありえない.それが可能なのはジョージ・オーウェルの世界だけである.これは,学校は所詮勉強を教えるところだという限界をわきまえない議論である.

大学の責任

 「受験戦争」はもちろん,高校までの教育のさまざまな問題について大学と大学教員にも多大の責任がある.まず,教育のゆがみの原因の一つを作りだしている文部科学省の教育政策の立案に教育界から加わっているのはほとんど大学教員である.また,「AO入試」などと称して大学入学に「人格による選抜」を導入しようとしているのも大学である.人格評価という考えがいかに不遜で恐ろしいものであるかについては上に述べた.

 また,自らの信じるところをはっきりと表明するということは学者としての「アカウンタビリティー」の重要な要素であろう.しかし最近の大学の「統合・再編」や「独立行政法人化」の問題で,大学関係者はこの責任を十分に果たしていない.教授会にせよ個人にせよ意見の表明がほとんどなされないのである.

 どのような「業界」も他者からのオープンな批判にさらされてかろうじて健全性を保つことができる.大学も例外ではない.ここで私は高校までの教育についていろいろと批判めいたことを述べたが,大学に対しても同じ事を高校の教職員の方々にお願いしたいと思う.大学は今日もっぱら政府や財界からの批判にさらされ,労働組合や市民団体から批判されることが余りにも少ない.つまり大学はこれまで非常に偏った風にさらされてきたのである.


[1] ユネスコ高等教育世界宣言「21世紀の高等教育 展望と行動」,1998年11月
 UniversityIssues/AGENDA21.htm

[2] グレン・D・フック,「軍事化から非軍事化へ」,お茶の水書房,1986年.88ページ.

[3] 木村晃郎,「学校五日制と教育改革」,福岡県高等学校教職員組合発行「アナザーアクセス」37ページ,1994年1月.

[4] このような学校の限界性に注意をはらった政府レベルの教育改革のレポートがある.フランスの「コレージュ・ド・フランス教授団」の「未来の教育ための提言」がそれである.今日のわが国の教育関係者の必読のものと信じる.岩波の月刊誌「世界」の88年3月号に翻訳されている.または,次からダウンロード可能.
 education/PPEA.HTML

*なお当時の教頭らも含めPTA役員OBの「同窓会」は今でも続いている.