「君死にたまふこと勿れ」への批判に対する作者の反論

与謝野晶子「ひらきぶみ」から

(定本 与謝野晶子全集 第12巻 講談社 p466)

(“ \/ ”は縦書きの繰り返し記号の代わりです。)

・・・・・・・この小き兒の胸知らぬ汽車は瞬く丙に平沼へ着き候時、そこの人ごみの中にも父さま居給ふやと、ガラス戸あけよと指さしして戸に頭つけ候に、そとに立ち居し西洋婦人の若きが認めて、帽に花多き顔つと映し、物云ひかけてそやし候思ひがけなさに、危く下に落つる計りに泣きころげ来り候。その駭きに父さまの事は忘れたらしく候へぱ、箱根へかゝり候まで泣きいぢれて、よう寢て居り候秀を起しなど致し候へぱ、又去年の旅のやうに蟲を出だし候てはと、呑まさぬ筈の私の乳啣ませ、やつとの事に寢かせ候ひしに、近江のはづれまで不覺に眠り候て、案ぜしよりは二人の兄は楽に候ひしが、私は末と三人を護りて少しもまどろまれず、大阪に着きて迎への者の姿見てほつと安心致し候時、身も心も海に流れ候人のやうに疲れを一時に覺え候。

車中にて何心なく太陽を讀み候に、君はもう今頃御知りなされしなるべし、桂月様の御評のりをり候に驚き候。私風情のなま\/に作り候物にまでお眼お通し下され候こと、忝きよりは先づ耻しさに顔紅くなり候。勿體なきことに存じ候。さは云へ出征致し候弟、一人の弟の留守見舞に百三十里を歸りて、母なだめたし弟の嫁ちからづけたしとのみに都を離れ候身には、この御評一も二もなく服しかね候。

私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれぱ悪ろく候にや。あれは歌に候。この國に生れ候私は、私等は、この國を愛で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の兩親は私に何をか教へ候ひし。堺の街にて亡き父ほど天子様を思ひ、御上の御用に自分を忘れし商家のあるじは無かりしに候。弟が宅へは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。まして九つより榮華や源氏手にのみ致し候少女は、大きく成りてもます\/王朝の御代なつかしく、下様の下司ばり候ことのみ綴り候今時の讀物をあさましと思ひ候ほどなれぱ、平民新間とやらの人達の御議論などひと言ききて身ぷるひ致し候。されはとて少女と申す者誰も戦ぎらひに候。御國のために止むを得ぬ事と承りて、さらぱこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く濟めと所り、はた今の久しきわびずまひに、春以末君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂き居り候程のなかより、私等が及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知り居り候べき。提灯行列のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉の家の恤兵の百金にも當り候はずや。馬車きらびやかに御者馬丁に先き追はせて、赤十字社への路に、うちの末が致してもよき程の手わざ、聞えはおどろしき繃帯巻を、立派な令夫人がなされ候やうのおん眞似は、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私共のこの國びととしての務は、精一杯致しをり候積り、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義損など云ふ事に冷かなりと候ひし嘲りは、私ひそかにわれらに係はりなきやうの心地致しても聞き居り候ひき。

君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、萬一の時の後の事などもけなげに申して行き候。此頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑なき勇士にて候べし。さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。學校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげ\/妻のこと母のこと身ごもり候兒のこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。

私が「君死に給ふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様太相危瞼なる思想と仰せられ候へど、當節のやうに死ねよ\/と申し候こと、又なにごとにも忠君愛國などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方却て危瞼と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残り居り候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿體なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候、いくさのこと多く書きたる源平時代の御本こも、さやうのことはあるまじく、いかがや。

歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き\/年の後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、佳月様お許し下されたく候。佳月様は弟御様おありなさらぬかも存ぜず候へど、弟御様は無くとも、新橋澁谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、ロ々に「無事で掃れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「萬歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふぺく候。澁谷のステーションにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までも斯く申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で歸れ、気を附けよ、萬歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死に給ふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまとの聲、これもまことの聲、私はまことの心をまことの聲に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。

私十一ばかりにて鴎外様のしがらみ草紙、星川様と申す方の何やら評論など分らずながら讀みならひ、十三四にてめざまし草、文學界など買はせ居り候頃、兄もまだ大學を出でぬ頃にて、兄より帝國文學といふ雑誌新たに出でたりとて、折々送つて貰ひ候うちに、雨江様桂月様今お一人の新體詩その雑誌に出ではじめ、初めて私藤村様の外に詩をなされ候方澤山日本におありと知りしに候。その頃からの詩人にておはし候桂月様、なにとて曾孫のやうなる私すらおぽろげに知り候歌と眼の前の事との区別を、桂月様どう遊ばし候にや。日頃年頃桂月様をおぢい様のやうに敬ひ候私、これはちと不思議に存じ候。

なほ桂月様私の新體詩まがひのものを、つたなし\/、柄になきことすなと御深切にお叱り下され候ことかたじけなく思ひ候。これは私のとがにあらず、君のいつも\/長きもの作れと勧め給ふよりの事に候。しかし又私考へ候に、私の作り候ものゝ見苦しきは仰せられずとものこと、桂月様をおぢい様、私を曾孫と致し候へば、御立派な新體詩のお出来なされ候桂月様は博士、やう\/この頃君に教へて頂きて新體詩まがひを試み候私は幼稚園の生徒にて候。幼稚園にてかたなりのまゝに止め候はむこと、心外なやうにも思ひ候。

かやうなること思ひつゞけて、東海道の汽車は大阪まで乗り通し候ひき。光今夜はよく眠り候へば、うつかり長きこと書きつらね候かな、時計は朝の壹時を打ち候に。君も今頃は筆おき給ふ頃、坊達が居らで静なる夜に何の夢か見給ふらむ。今日父の墓へまゐり候。去年のこの頃しのび候て、お寺の廊の桂にしはらく泣き申し候。・・・・・・・・・