ピョンテクにおける基地反対闘争

Kang Sang-Won(p153)


1.イントロ

ピョンテク(平澤)地域の大小の米軍基地

 Songtan Air Base (Osan Air Base)

 Anjeongri base (Camp Humphreys)

 大規模弾薬庫,訓練基地,その他


前2者で21平方キロ.将来,これに11.5平方キロが強制的に取り上げられ,全体で26.6.平方キロになろうとしている.これは市の面積の10%.


2.ピョンテク基地反対闘争の歴史

1990年にソウル・ヨンサンの基地をピョンテクに移転するとの計画発表の後,反対の委員会ができた.

この運動で,移転計画は取り消され,委員会は基地返還の闘いへ.しかし大きな運動にはできなかった.


2000年以後

01年,在韓米軍は“Land Partnership Plan (LPP) ”と称して,基地統合計画を打ち出す.04年に改訂し,1.65x10^8m^2を返還し,逆に1.1x10^7m^2だけ基地を拡張.


これは,北の長距離砲の射程外のピョンテクに移転することで,先制攻撃をやりやすくするためのもの.


アメリカはこの面積の差を強調するが,しかしこれはアメリカの都合によるもので,より軍事的ヘゲモニーを拡大するためのもの.


ピョンテク市民の反対にもかかわらず,議会は2004年12月にこの協定を批准.

これを受けて地元の3組織が基地拡張反対運動を展開.


移転が発表された当時のピョンテクの世論は70%の高率で反対だった.理由は,あらゆる種類の開発への阻害,犯罪の恐れ,環境破壊,教育環境の悪化など.


盧武鉉政権は,第二のBuanになることを恐れ,特措法を制定してピョンテク市に1.4兆ウオンの支援を決めた.それとともに政府は“brilliant future”というプロパガンダを始め,世論も逆方向へ向かった.


基地反対運動を困難にする客観的条件:半世紀にわたって存在してきたピョンテク基地が住民の歴史認識をゆがめ,米軍は共産主義から韓国を救ったという見方が深く染みついている.また,地域世論に影響する地元有力者と米軍との密接かつ腐敗した関係.そして特措法.


3.ピョンテク基地闘争の結果と限界

結局住民は強制的に追い出されたが,02年から06年にかけての闘いは鮮明に記憶に留められた.

第一に,闘いの中心にいたのは運動グループではなくて地元の人々だった.935日間も続いたロウソクのヴィジルは韓国の民主運動で空前のものだった.農民たちの願いは,過去に日本軍や,そして現在の米軍によって追い立てられた悲しみを繰り返したくない,平和に土地を耕したいというものである.


第二に,平和運動の多面性を見せたこと

02年には,環境運動として出発したナショナルトラスト運動が基地問題に参入し,基地拡張予定地だった場所2000m^2を買い上げる運動を起こした.この運動でピョンテク平和センターが設立された.


04年のロウソクのヴィジル(vigil)には社会の多様な階級や階層の人々,映画制作者から歌手,無名の平和運動かなどが参加した.これは沖縄を含む世界に広がった.

全土を回ったトラクター車列(convoy).


しかし政府は軍隊と警察を動員して,06年5月に拡張予定地を強制収容し鉄条網を張った.この際多くの活動家が逮捕され,負傷した.政府の圧力はさらに強まり,居住者の反対運動リーダーの逮捕などもあり,最終的に反対グループは政府との合意を余儀なくされ,4年にわたる闘争は終わった.


現在,米軍基地の拡張は大回転で進んでいる.しかし議論は終わっていない.移転の費用,防衛費を米軍基地のためだけに使っていいのかという問題,基地建設に伴う環境破壊の問題など,全く解決していないからだ.また何よりも,彼ら住民の税金と豊かな農地が,なぜ米軍の飽くなき貪欲さのために供されなければならないのか,ということについて,人々は納得していない.


この国際会議を通じて,米軍の支配が韓国の人々にどのような惨状をもたらしたかが明らかにされることを期待します.また,これが傲慢なアメリカへの自己反省の機会となることを希望します.